銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

宮崎県編  その15

〇藤井長治郎 (1889~1985)

 官僚、教育者。宮崎師範学校卒業後、諸塚村内の小学校教員や諸塚郵便局長を経て、1929年に諸塚村議会議員となる。戦後諸塚村長に就任すると、村公民館を建てて、集落自治の活動組織を確立、さらに1947年には日本初の成人式を創始し、村の発展に寄与した。その後宮県議会議員を務めた。

<藤井長治郎像>

場所:諸塚村中央公民館(宮崎県東臼杵郡諸塚村家代3066)

竣工:1979年2月

像高:

作者:背面に署名があるが、達筆すぎて読めない   

撮影時:2022年3月28日

説明:戦後日本の荒廃を見て、なんとかしなければと思ったんでしょうね。成人式の始まりが、こんな山中の村からとは…

 

〇若杉近三郎 (1893~)

 官僚。南郷村長。宮崎県東臼杵郡南郷村神門生まれ。造林などの育成事業、ダムなどの建設事業、学校建設などの教育事業に従事し、村の発展に寄与した。

<若杉近三郎像>

場所:美郷町南郷支所(宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門287)

竣工:1966年11月

像高:

作者:後藤松生

撮影時:2022年3月28日

説明:旧南郷町役場の駐車場の入り口あたりなんだけど、あんまり記憶にない…

 

〇禎嘉王 (?~?)

 旧百済の王族。奈良時代中期の756年に日本に亡命したとされる。その後敵(?)に攻められ、息子の福智王の力もあり撃退するが、敵から受けた矢傷が元で亡くなったという。

  ※3体は右から「福智王」「禎嘉王」「嘉智王」である。

<禎嘉王像>

場所:塚ノ原古墳(宮崎県東臼杵郡美郷町南郷鬼神野)

竣工:おそらく2003年

像高:

作者:

撮影時:2022年3月28日

説明:朝鮮の古史『三国史記』によると、8世紀半ば頃は災害が続き、民が飢えていたことがわかる。一方同じ頃の『続日本紀』には、新羅から多くの人々が亡命を望んでいる、との記事が載る。像のある塚ノ原古墳は禎嘉王の墓とされ、近くの神門神社には、『神門神社縁起』があり、そこには上記のような話として出てくるのだ。またここには24面の銅鏡があり、奈良正倉院の宝物と同一品である。これは「西の正倉院」に展示されている。

 

〇福智王 (?~?)

 旧百済の王族、禎嘉王の子。朝鮮から亡命してきた王族。父とははぐれて違う海岸に流れ着き、日向国の比木に移住したという。敵が攻めて来たとき、父を助けるために神門へ向かったが、父は負傷し、福智王は逃げたという。

<福智王像>

場所:塚ノ原古墳(宮崎県東臼杵郡美郷町南郷鬼神野)

竣工: おそらく2003年

像高:

作者:

撮影時:2022年3月28日

説明:父の居場所を知った福智王は、正月に父と再会するが、繰り返し会うと敵に察知されると考え、周りの人々の助けを借りて親孝行を続けたという。これに地域の有力者「ドンタロさん」(益見太郎)は陰に日向に協力し、敵軍が来襲したときには一緒に戦ったとも言う。「ドンタロさん」の墓は神門神社境内地山頂にある「ドンタロ塚」だという。

 

〇嘉智王 (?~?))

 旧百済の王族。福智王の弟。敵が攻めてきたとき、嘉智王は伊佐賀神社の地(日向市東郷町下三ヶ)で討たれたという。

<嘉智王像>

場所:塚ノ原古墳(宮崎県東臼杵郡美郷町南郷鬼神野)

竣工:おそらく2003年

像高:

作者:

撮影時:2022年3月28日

説明:こうした経緯があるので、旧南郷町は日韓交流のシンボルとして百済の館を作った.(東臼杵郡美郷町南郷神門894)。この施設は、大韓民国の古都「扶余」の王宮跡に立つ、(元)国立博物館の「客舎」をモデルにしたものである。また旧南郷町では、「師走まつり」という禎嘉王、福智王が年1回会う祭が行われるなど、この地域は旧百済の伝説に彩られている。

 

菊池武夫 (1875~)

 男爵、陸軍中将。熊本県菊池郡生まれ。祖は米良氏と言い、戦国時代に肥後菊池氏が大友氏に滅ぼされた後、菊池能運の子孫が、日向国米良(宮崎県児湯郡西米良村)へ逃れたことから。王政復古後に武夫の父、米良則忠が朝廷に帰順した際に、菊池氏と復姓し華族となった。武夫は、陸軍で日露戦争に活躍後、貴族院議員となり、1935年に「天皇機関説問題」を提起して、国体明徴運動の契機を作った。1941年には亜細亜大学の前身の「興亜専門学校」を設立、初代校長と運営母体である(財)興亜協会の初代理事長になった。戦後A級戦犯となり、不起訴となるものの、公職追放を受けた。

菊池武夫像>

場所:菊池記念館(宮崎県児湯郡西米良村村所2-2)

竣工:1995年12月

像高:

作者:平原孝明

撮影時:2022年3月29日

説明:今日調べるまで、あの「天皇機関説問題」の菊池武夫のこととは知らなかった。美濃部達吉としては、とんだ濡れ衣なのだが、世論というのは怖いね…

 

〇菊池則忠 (1830~1908)

 幕末期の米良藩主。肥後国球磨郡米良小川(現宮崎県児湯郡西米良村)生まれ。1849年に家督を継ぎ、幕末は尊王攘夷派として活動した。1868年に菊池性に復姓し、「菊池広次郎忠(すなお)」と名乗り、版籍奉還の際には、領内の山林を全領民に分け与え、村民の生活基盤を整えた。西南戦争後、家督を嫡男武臣に譲り(武夫の父)、晩年は菊地神社(熊本県菊池市)の宮司を務めた。

<菊池則忠像>

場所:小川作小屋村と城址公園(宮崎県児湯郡西米良村小川254)

竣工:1990年3月

像高:

作者:坂元典生

撮影時:2022年3月29日

説明:相当山奥だが、この地の周りは小さな盆地となっており、行った折には雨降りだったが、下記のように桜が満開だった。

 

以上で、宮崎県編は終了となる。調査した像の数は136体だが、前記したように延岡市の内藤記念館は工事中で入れず(延岡市体育館の磯貝一も)、日南市の乙姫(吾平津神社:日南市材木町9)、人魚姫(大堂津駅:日南市大堂津3-5-18)、神武天皇(駒宮神社:日南市平山1095)、宮崎市青島の瓊瓊杵尊木花開耶姫(青島参道南広場:宮崎市青島2-12)の5体は、帰りの飛行機に間に合わなくなるのでパスした。またこれも前記したが、宮崎市清武町の小学校に立つ安井息軒像も、春休みの登校日だったらしく入れず、宮崎学園短期大学の大坪資秀(宮崎市清武町加納丙1415)、日南市の角利吉(水と土のふれあいセンター:日南市北郷町郷之原50)は、探訪ルートから外れるので、今回は泣く泣くカットした。また祝子川温泉美人の湯の山幸彦(延岡市北川町内名10358-10)も行程的に厳しかったのでカットした。宮崎空港温水洋一は、見つけられなかった。そういえばリストから外したが、M-1優勝で銅像を作ってもらった、とろサーモンの2人(久保田かずのぶ村田秀亮)の像は、宮崎市役所の倉庫に眠っているらしい(TVで見ました)。