銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

岐阜県編   その19

〇ヨハニス・デ・レーケ (1842~1913)

 オランダ人の土木技師。オランダのコレインスプラート生まれ。1873年に明治政府から内務省土木局に招かれたお雇い外国人。当初は施工や監理を担当したが、一緒に雇われたG・A・エッセルやファン・ドーレンの後任として、木曽川の分流計画や常願寺川の河川改修などに携わった。そして内務省勅任官技術顧問の扱いで、日本中の土木工事の技術指導や助言などをおこなった。

<ヨハニス・デ・レーケ像>

場所:さぼう遊学館岐阜県海津市南濃町駒野奥条入会)

竣工:2000年12月

像高:

作者:

撮影時:2017年3月4日

説明:この地は、デ・レーケの指導で1888年に完成した、巨石堰堤のあるところ。なお海津市歴史民俗資料館(岐阜県海津市萱野205-1)、船頭平河川公園の閘門前(愛知県愛西市立田町十六石山)にも像はある。

 

〇平田靫負(ひらたゆきえ) (1704~1755)

 江戸時代中期の薩摩藩家老。諱は宗武(のち正輔)。1753年からの木曽三川分流工事(宝暦治水)の薩摩藩総奉行として従事し、工事終了後に死亡した。多額の工事費負担と難工事から、病死者53名、自殺者52名を出し、本人も1年3ヶ月の工事終了すぐに亡くなり(自殺説もある)、藩主の島津重年も心労から病死している。

<平田靫負像>

場所:大巻薩摩藩工事役館跡(岐阜県養老郡養老町大巻39)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2017年3月4日

説明:大巻には下記の座像もある。墓所のある海蔵寺三重県桑名市北寺町10)には、靭負の木像がある。また平田公園(岐阜県海津市平田町三郷2330)には全身像がある。海津市歴史民俗資料館にも胸像がある。故郷の鹿児島県には、自宅のあった平田公園(鹿児島県鹿児島市平之町6)に像がある<鹿児島県編その19参照>。

 

〇菱田尚一 (1880~1955)

 治水神社の建設委員長。岐阜県海津郡貝津町(現岐阜県海津市)生まれ。岐阜県議会議員などを歴任する。この地の治水事業に尽力した。

<菱田尚一像>

場所:治水神社(岐阜県海津市貝津町油津)

竣工:1967年10月

像高:

作者:

撮影時:2017年3月4日

説明:治水神社の社屋の左側に立つ。治水神社は多くの石碑などの建つスポットである。

 

伊藤光好 (?~?)

 海津町長。宝暦治水の語り部。宝暦治水史蹟保存会長。全国で精力的に講演をおこなったため、この像は鹿児島県より贈られた像とのこと。その結果、海津市と鹿児島県の霧島市姉妹都市である。

伊藤光好像>

場所: 治水神社(岐阜県海津市貝津町油津)

竣工:1990年4月

像高:

作者:

撮影時:2017年3月4日

説明:治水神社の狛犬の脇に立つ。その裏には「薩摩義士之像」もある。

 

武藤山治 (1867~1934)

 明治~戦前の経営者、思想家、政治家。美濃国安八郡平田村(現岐阜県海津市)生まれ。慶應義塾を卒業後、日本で初めての広告取扱業「新聞広告取扱所」を興し、後藤象二郎大同団結運動に参加。その後三井銀行に入ると、鐘淵紡績兵庫分工場の支配人となり、紡績業の発展に寄与、さらに鐘紡と国内の紡績会社との合併を進め、鐘紡は国内トップクラスの企業へと成長し、社長になる。その後衆議院議員(3期)。議員を辞めて時事新報社に入社、帝人事件を暴くが、1934年に北鎌倉の自宅を出たところで暗殺された。

武藤山治像>

場所:海津市生涯学習センター(岐阜県海津市平田町仏師川483)

竣工:

像高:

作者:朝倉文夫

撮影時:2017年3月4日

説明:神戸市垂水区の旧武藤山治邸(兵庫県神戸市垂水区東舞子町4-2051:舞子公園内)の1Fカフェ前に胸像がある。またブラジルのトメアスー文化協会の会館前にも胸像がある。

 

なお、今回で岐阜県編は終了となる。

岐阜市の岐阜薬科大学本部キャンパスの松尾国松・渡辺甚吉。高山市の福来記念・山本資料館の福来友吉・山本健造、照蓮寺(福来記念館)の福来友吉(ここは今やっていないかも知れない)。麗澤瑞浪高校の廣地千英。養老駅養老公園の源丞内。は回りきれなかった。また大垣市役所の東島卯八、水無神社(飛騨国一宮)の上杉一枝は、像が見つけられなかった。大垣市役所は建て替えられているので、像が無くなっているかも知れない。