銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

岐阜県編   その18

先週は、近江で銅像ではなく、仏像を巡っていました(安曇川で少し銅像も回りましたが…)。では、岐阜県編をあと少し!

 

竹中半兵衛 (1544~1579)

 戦国期~安土桃山期の武将、軍師。初名重虎。のちに重治。美濃国大野郡大野(現岐阜県揖斐郡大野)生まれ。羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田官兵衛(孝高)とともに「両兵衛」と称された。当初美濃の斎藤義龍に仕えたが、義龍の死後、子の龍興が酒色に溺れていた。半兵衛は安藤守就とともに稲葉山城を落とし、これ以降斉藤氏の勢力は急速に落ちていった。その後羽柴秀吉の家臣として活躍、織田信長の家臣、荒木村重の謀反(有岡城の戦い)の際には、黒田官兵衛は帰服を呼びかけるために場内に入ったところ捕縛されたが、信長は孝高の裏切りと判断、息子松寿丸(のちの黒田長政)の殺害を命じた。半兵衛は機転を利かせて松寿丸の命を助けた。播磨三木城の包囲線の最中に病没した。

竹中半兵衛像>

場所:竹中氏陣屋跡(岐阜県不破郡垂井町岩手619-2)

竣工:2003年

像高:

作者:高木嗣人

撮影時:2023年3月28日

説明:竹中氏陣屋跡には、現在岩手小学校が建つ。石垣と櫓門だけが江戸時代のもの。半兵衛像はあと2体。JR垂井駅前の像(岐阜県不破郡垂井町1812-10/2014年9月/作者:高木嗣人)、タルイピアセンター内の像(岐阜県不破郡垂井町2443-1/1994年3月/作者:石田武至)。陣屋跡と垂井駅では、兜と持ち物が違っている。

 

 

〇戸田氏鉄(とだうじかね) (1576~1655)

 江戸期の大名。三河国二連木(現愛知県豊橋市)生まれ。徳川家康の近習として仕え、関ヶ原の戦いに参戦後、近江膳所藩主、摂津尼崎藩主を経て、美濃大垣藩主となる。島原の乱においても実践の少ない幕府軍をリードして奮戦した。

<戸田氏鉄像>

場所:大垣城址(岐阜県大垣市郭町2-53)

竣工:1994年3月

像高:

作者:安田修

撮影時:2023年3月28日

説明:桜をバックに、なかなかいい写真が撮れた。もう1枚城をバックにしたものをサービスショットで…。

 

〇金森吉次郎 (1864~1930)

美濃国大垣輪中の魚屋町(現岐阜県大垣市)生まれ。父は大垣屈指の資産家で、彼もそれを引き継ぐと、岐阜県会議員、大垣町会議員、衆議院議員などを歴任、1896年の大洪水の際に、大垣輪中堤防委員長として、4万人の命を救った。また大垣城天守の石垣にこの際の浸水位を刻んだ。その後水害の根本解決のために治水と造林事業に全力を挙げた。

<金森吉次郎像>

場所:大垣城址(岐阜県大垣市郭町2-52)

竣工:1954年12月(当初像は1923年6月)

像高:

作者:中村輝

撮影時:2023年3月28日

説明:旧像は1944年に金属供出。彼が治水事業へと駆り立てたのは、静岡県金原明善との出会いがあり、「治水のもとは治山である」が彼の持論であった。

 

 

〇土屋斉(つちやひとし) (1907~2003)

 大垣共立銀行第9代頭取、会長。大垣商工会議所会頭、岐阜県公安員会委員長。同盟通信社から岐阜放送常務を経て入行。

<土屋斉像>

場所:大垣共立銀行本部(岐阜県大垣市郭町3-98)

竣工: 1997年3月

像高:

作者: 斎藤勝弘

撮影時:2023年3月28日

説明:大垣共立銀行本部の北西の角、郭町の交差点に面したところに交差点に背を向けて立つ。

 

〇飯沼慾斎(いいぬまよくさい) (1782~1865)

 江戸時代の本草学者、医者。伊勢国亀山(現三重県亀山市)生まれ。名は長順。小野蘭山に本草学を、宇田川榛斎に蘭学を修め、大垣で蘭方医として活躍した。60歳を過ぎてから『草木図説』を執筆、70歳を過ぎてから写真術の研究など、雅号のように知識欲が旺盛であった。

<飯沼慾斎像>

場所:俵町薬木広場(岐阜県大垣市俵町2)

竣工:

像高:

作者:作者名の刻印が読めない…

撮影時:2023年3月28日

説明:『草木図説』は時代を経、又海外でも評価が高い。

 

〇谷木因 (1646~1725)

 江戸時代の俳人、商人。美濃国大垣生まれ。船問屋を生業とし、裕福な商人であった。俳諧北村季吟の門人であったが、早くから松尾芭蕉と親交があり、芭蕉は『奥の細道』の旅結びの地を大垣と決めていたようだ。

松尾芭蕉と谷木因像>

場所:奥の細道むすびの地記念館前(岐阜県大垣市船町2-26-1)

竣工:1988年3月

像高:

作者:鈴木正道

撮影時:2023年3月28日

説明:水門川という、堀筋に立っている。またここが船町港の後だそうだ。桜がきれいであった。

 

小原鉄心 (1817~1872)

 幕末の美濃大垣藩城代。諱は忠寛。美濃国大垣生まれ。幕末にペリーが浦賀に来航すると、浦賀奉行戸田氏栄は、本家大垣藩戸田家に支援を要請。鉄心は藩兵とともに浦賀警備のために派遣された。その後1864年禁門の変においては、長州藩と戦い、長州藩勢を伏見まで追い詰める活躍をした。1868年明治維新となると、参与として明治政府に出仕したが、大垣藩鳥羽・伏見の戦い幕府軍側に立っていた。そこで鉄心は藩を説得し、尊皇派にした。また戊辰戦争では東山道先鋒として従軍した。

小原鉄心像>

場所:奥の細道むすびの地記念館内(岐阜県大垣市船町2-26-1)

竣工:

像高:

作者:中村輝

撮影時:2023年3月28日

説明:奥の細道むすびの地記念館の脇には、鉄心の別荘「無何有荘」が移築され、奥の細道むすびの地記念館は、芭蕉館と先賢館に分かれ、先賢館には、江間蘭斎、江間細香、飯沼慾斎、梁川星巌とともに小原鉄心が紹介されている。