銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

岐阜県編  その17

〇梁川星巖(やながわせいがん) (1789~1858)

 江戸時代後期の漢詩人。名は卯。通称は新十郎。美濃国安八郡曽根村(現岐阜県大垣市)生まれ。郷士の出で、1820年女流漢詩人紅蘭と結婚した。安政の大獄では、かつての弟子、老中間部詮勝を懐柔する計画であった。星巌自体が、梅田雲浜頼三樹三郎吉田松陰橋本左内などと交流があったため捕縛の対象であったが、直前にコレラによって急死した。

梁川星巌像>

場所:曽根城公園(岐阜県大垣市曽根町1-716-1)

竣工:1989年10月

像高:

作者:寺沢孝明・安田修

撮影時:2023年3月28日

説明:曽根城公園は、戦国時代の稲葉一鉄の居城で、古大垣輪中堤に隣接し、曽根池を含む。すぐ前に星巌が学問を学んだ華溪寺があり、境内には梁川星巌記念館がある。行ったときは近所の方たちが花見に集まっていました。

 

〇梁川紅蘭 (1804~1879)

 江戸時代後期の女流漢詩人。幼名はきみ。絵画にも優れた。美濃国安八郡曽根村(現岐阜県大垣市)生まれ。又従兄弟の星巌と結婚する(17歳の時)。星巌は結婚後すぐに旅に出、その間紅蘭に三体詩を暗誦することを命じた。3年後星巌が戻ると、三体詩を暗誦するばかりか、詩を詠めるほどに研鑽を積んでいた。以降2人で岡山、下関、長崎などに旅をした。以後江戸や京に居を構えたが、安政の大獄直前に星巌が急死すると、紅蘭が投獄された。晩年は星巌の遺稿の整理や京都で私塾を開いた。

 

<梁川紅蘭像>

場所:曽根城公園(岐阜県大垣市曽根町1-716-1)

竣工:1989年10月

像高:

作者:寺沢孝明・安田修

撮影時:2023年3月28日

説明:夫の星巌に放浪癖があったようで、それに付き添う紅蘭もかなりの覚悟があったのではないか?安政の大獄で捕縛された際には、星巌と交流のあった人物の書簡をすべて焼却し、尋問ではシラをきりとおしたと言う。

 

蓮如 (1415~1499)

 室町時代浄土真宗の僧侶。浄土真宗本願寺派第8代宗主・真宗大谷派第8代門首。京都生まれ。この時期の浄土真宗は混乱を極めており、延暦寺の弾圧から逃れるため、近江、越前吉崎などに移り住み、活動をしていた。1478年に山城国山科に坊舎の造営を始め、山科本願寺ができた。さらに石山本願寺を作るなど、浄土真宗の発展に努めた。蓮如の布教は、「御文」という手紙形式のわかりやすい文による教義の解説であったため、信者を増やした。

蓮如像>

場所:性顕寺(しょうけんじ)(岐阜県安八郡神戸町末守486-1)

竣工: 2012年3月

像高:

作者:

撮影時:2023年3月28日

説明:性顕寺は平安時代初期の創建だが、室町時代末期に蓮如の教えを受け、浄土真宗に改宗した。その後美濃地方の中心寺院として活動し、真宗織田信長の戦いである石山合戦(1570~80)にも参戦したという。

 

〇内田仙司 (1863~1933)

 明治期の大工。棟梁として主に寺社仏閣建築を手がけた。美濃国池田郡白樫(現岐阜県揖斐郡揖斐川町)生まれ。16歳で父の仕事と同じ大工となり、21歳から棟梁となり、多くの寺社建築を手がけた。特に東本願寺大垣別院大伽藍、東本願寺内事日本館の棟梁を務めて名声を高めることとなった。

<内田仙司像>

場所:白樫神社(岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫132)

竣工: 不明(1929年3月完成の銅像は寿像だったが、金属供出で現存せず)

像高:

作者:

撮影時:2023年3月28日

説明:コンクリート像である。岐阜県を中心に多くの寺社建築に携わり、多くの弟子を輩出したようだ。

 

〇日比野五鳳 (1901~1985)

 昭和期の書家。本名信(まこと)。愛知県東春日井郡勝川町(現愛知県春日井市)生まれ。生後すぐに母が亡くなったため、岐阜県安八郡神戸町に移り住む。大垣中学校(現大垣北高校)卒業後に書家に師事し、京都精華高等女学校や京都府女子師範学校などで教鞭を執る。

<日比野五鳳像>

場所:日比野五鳳生地(岐阜県安八郡神戸町中沢623-2)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2023年3月28日

説明:この場所には記念碑が立ち、その脇に胸像がある。神戸町では日比野五鳳記念美術館がある。

 

〇所郁太郎 (1838~1865)

 幕末の医者、志士。美濃国不破郡赤坂村(現岐阜県大垣市)生まれ。梁川星巌と親交を結んだ。1860年に大坂適塾に入り、緒方洪庵に学び、福澤諭吉大村益次郎らと交友を得た。京都で医者として開業し、長州藩京都藩邸医院総督となる。この頃刺客に襲われ瀕死の重傷を負った井上聞多(馨)を治療し、井上は一命を取り留めている。その後八月十八の政変からの長州藩受難の時代に、長州藩士として久坂玄瑞高杉晋作らと行動し、軍監を務めるなどしたが、腸チフスにより亡くなった。

<所郁太郎像>

場所:赤坂本陣公園(岐阜県大垣市赤坂町251-5)

竣工:1995年3月

像高:

作者:

撮影時:2023年3月28日

説明:この地を訪れるのは二度目。東海道赤坂宿の本陣跡に作られた公園で、皇女和宮も宿泊したところだそうだ。作者のサインを撮ったが、解読できない。下記に載せるので知る人は教えてください。