この土日は、在職する学校の文化祭で疲れ果てたため、更新が遅れました…
〇明治天皇 (1852~1912)
幕末から明治期の天皇。第122代。諱は睦仁。孝明天皇の第二皇子。母は中山慶子.山城国平安京(現京都府京都市)生まれ。1867年父の死を受けて践祚、翌年即位した。幕末の動乱のなか、大政奉還、王政復古の大号令、五箇条の誓文、と教科書に載ることを次々とおこない、明治時代の激動を過ごしていった。
<明治天皇像>
竣工:1972年7月(2012年岐阜公園千畳敷より,護国神社へ移設)
像高:
作者:梁川剛一
撮影時:2023年3月28日
説明:千畳敷は,金華山ロープウェイの乗り場近くであったが、この地は信長の居館の跡であり、当時発掘調査が行われていた関係で、公園の端というか、人目につかない現在地に移された模様。さらに撮影時、この場所の整備が行われていた。
逆光で顔が見えませんね…ちなみに私はこのすぐ隣のホテルに泊まりました。
〇織田信長
略
<織田信長像>
竣工:1988年
像高:
作者:北村西望
撮影時:2023年3月28日
説明:岐阜市市制100周年を記念して建てられたが、2009年に金華山の麓から公園正門入り口に移設された。岐阜公園は、岐阜城のある金華山の麓、斎藤道三や織田信長の居館のあった場所とされる。岐阜市歴史博物館、名和昆虫博物館などの施設がある。
〇板垣退助 (1837~1919)
幕末、明治期の武士、政治家。明治維新の元勲の一人、自由民権運動の指導者。民撰議院設立建白書を政府に提出、その後愛国公党、自由党を創始し、帝国議会の樹立に貢献、「国会を創った男」とされる。
<板垣退助像>
竣工:1950年5月(初代は1918年4月に寿像として建てられたが、1943年に金属供出)
像高:220㎝
作者:柴田佳石(初代は畑正吉)
撮影時:2023年3月28日
説明:板垣退助は、1882年に近くの会場で演説後、この地で相原尚褧(あいはらなおふみ)に左胸を刺されたが、その際に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとされる(実際は側近の内藤魯一が言ったとも)。治療は後藤新平がおこなった。明治天皇が見舞いの勅使を送ったとのこと。初代は地元の山田永俊(立憲政友会の議員、眼科医)の呼びかけに自由党有志が建てた。再建も山田永俊が中心となったそうだ。訪問時は、周りの工事中だったが、早朝で誰もいなかったので、工事柵内にこっそりお邪魔して撮影した。
〇高橋尚子 (1972~)
元陸上競技選手(女子マラソン)、スポーツキャスター。岐阜県岐阜市生まれ。2000年シドニーオリンピック女子マラソン金メダリスト。2回目のマラソンからシドニー五輪後のボストンマラソン(2002年)まで,マラソン6連覇を成している。
<高橋尚子像>
場所:岐阜メモリアルセンター長良川競技場(岐阜県岐阜市長良福光大野2675-28)
竣工:2001年11月
像高: 210㎝
作者:神戸峰男 (黒谷美術)
撮影時:2023年3月28日
説明:岐阜出身の高橋が高校時代(県立岐阜商業高)に練習していた長良川の河川敷のジョギングコースは「高橋尚子ロード」と命名され、その先にある陸上競技場の前にこの像が立つ。高橋のあだ名である「Qちゃん」は、オバケのQ太郎」から来ており、これは就職したリクルートで「オバケのQ太郎」のものまねを披露したことからである。
像の大事な顔のところに,鳥の糞がありますねぇ…💦
〇松井栄造 (1918~1943)
昭和初期の旧制中学校(現在の高等学校)野球、大学野球の選手。左投げ左打ち。投手兼外野手。静岡県静岡市生まれ。1931年全国少年野球優勝大会で優勝し、スカウト合戦の末。岐阜市立岐阜商業学校(現岐阜県立岐阜商業高等学校)に進学、1933年の春の甲子園(選抜中等学校野球大会=現選抜高等学校野球大会)で優勝、1935年の夏の甲子園(全国中学校優勝野球大会=現全国高等学校野球選手権大会)でも優勝した。決め球は大きなカーブ。その後進学した早稲田大学では、打者に転向し、1番左翼手で活躍した。1943年日中戦争で戦死した。
<〇松井栄造像>
場所:岐阜メモリアルセンター長良川球場(岐阜県岐阜市長良福光大野2675-28)
竣工:1991年3月
像高:
作者:斎藤勝弘
撮影時:2023年3月28日
説明:このポーズは、ウイニングショットのインドロップ(落差のあるカーブ)を投げているポーズ。後輩の大島信雄氏の協力によるそうだ。