〇山岡鉄舟 (1836~1888)
幕末の幕臣、明治期の官僚。江戸本所(現東京都墨田区)生まれ。名は高歩(たかゆき)。幼くして剣術を学び、新陰流、北辰一刀流などを会得する。父(小野高福)が飛騨郡代になったことから幼少期を飛騨高山で過ごす。父の死後江戸に戻り、山岡家に婿養子に入る。1862年に江戸で幕臣による浪士組を作る。1868年幕府の精鋭隊歩兵頭格となり、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城に先立ち、徳川慶喜の使者として官軍のいる駿府に行き、西郷隆盛と談判、江戸城無血開城を決した。明治維新後は、徳川家達に従い駿府に下り、各県の参事を歴任。1881年明治天皇に仕えた。
<山岡鉄舟像>
竣工:1987年12月
像高:
作者:三坂耿一郎
撮影時:2023年3月26日
説明:「若き日の山岡鉄舟」と銘打たれている。書や禅などはこの飛騨高山在住時代に学んだようだ。高山陣屋の松を見て、「降る雪や力くらべや松の枝」と詠んだそうだ。静岡市鉄舟寺に座像がある。
〇手長・足長
伝説の巨人。手足が異常に長い巨人。秋田県・山形県・福島県・長野県・福井県などに伝説、昔話があり、二人は夫婦であるとか兄弟とか言われている。飛騨高山のものは、須佐之男命と結婚した奇稲田姫の父母の、「足名椎命(アシナヅチ)」「手名椎(テナヅチ)命」である。
<手長・足長像>
竣工:
像高:
作者:高山祭で出す屋台(山車)に彫られた谷口与鹿の作品を基にする
撮影時:2023年3月26日
説明:作者のところに書いたとおり、手長・足長は高山祭の春の屋台の一つ、「恵比須台」に飾り付けられている谷口与鹿の「一位一刀彫り」の彫刻を模したもの。本来、手長・足長の伝説は、飛騨地方にはないらしい。
〇韓志和(からしわ)
大工、彫刻家。平安時代初期の人で、中国の書物『杜陽雑編』に載る木彫の名人で、飛騨の匠の一人とされる。自ら彫った鶴が本物のようなできばえで、この鶴に乗り唐の国に渡り、穆宗(ぼくそう)皇帝お抱えの大工になったという。大工の守り神「木鶴大明神」となる。
<韓志和像>
竣工:1986年
像高:
作者:
撮影時:2023年3月26日
説明:伝説のように鶴に乗り、大工のルーツなので、手にはノミと槌を持っている。
〇広瀬武夫 (1868~1904)
海軍軍人。豊後竹田(現大分県竹田市)生まれ。実家が西南戦争で焼けたために飛騨高山に移住。1885年に海軍兵学校に入学した。1904年からの日露戦争では、旅順閉塞作戦に従事し、第2回の閉塞作戦の際、閉塞船福井丸を指揮していたが、魚雷を受けた。撤退時に部下の杉野孫六がいないことに気づき、船内を捜索したが見つからず、やむを得ず退艦する際にロシア軍の砲撃を受けて戦死した。
<広瀬武夫像>
竣工: 1905年3月(1967年復元)
像高:
作者:
撮影時:2023年3月26日
説明:台座は1912年当時のもの。広瀬像はここが最初に作られ、その後1910年に東京旧万世橋駅前(1947年に撤去)、1912年に故郷の大分県竹田市に作られた(竹田市は2010年に立像も作成<当初は竹田市立歴史資料館前に.2017年に広瀬神社前に移築>)。
〇金森長近 (1524~1608)
戦国期から江戸初期の武将、大名。初名は可近(ありちか)、後に織田信長の名を一時もらい、長近に。美濃国土岐郡多治見郷(現岐阜県多治見市)生まれ。父が土岐氏の後継者争いに巻き込まれ、一家で近江に移住、その後織田信長に仕えた。長篠合戦や越前一向一揆の鎮圧に活躍し、越前大野を知行する。その後豊臣秀吉に仕え、飛騨国を統一し、飛騨国を知行することとなった。関ヶ原の戦いでは東軍に与し活躍した。
<金森長近像>
竣工:1982年11月
像高:
作者:般若純一郎
撮影時:2023年3月26日