〇フローレンス・ナイチンゲール (1820~1910)
イギリスの看護師、社会起業家、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の母。「光掲げる貴婦人」「クリミアの天使」とも称される。クリミア戦争(1853~56)での負傷兵の看護や統計に基づく医療衛生改革で著名。
場所:人道の丘公園交流広場(岐阜県加茂郡八百津町八百津1071)
竣工:1994年8月
像高:
作者: 神部峰男
撮影時:2023年3月27日
説明:人道の丘公園の交流広場の北側、駐車場のところにいる。
〇アルベルト・シュバイツァー (1875~1965)
アルザス人(フランスアルザス地方に住むアルザス語をしゃべるドイツ人ある万系の民族)の医師、神学者、哲学者、音楽学者。20世紀のヒューマニストと称せられる。30歳の時に医療と伝道に生きることを決意、アフリカガボン(当時はフランス領赤道ギニア)で住民への医療などに生涯を捧げたとされている。その後アフリカの医療活動とヨーロッパの講演活動(病院の資金援助のため)を繰り返して、次第に評価されるようになり、1952年にノーベル平和賞を受賞。
場所:人道の丘公園健康広場(岐阜県加茂郡八百津町八百津1071)
竣工:1994年8月
像高:
作者:神部峰男
撮影時:2023年3月27日
説明:ナイチンゲール像よりもちょっと丘を登った健康広場の駐車場のところにいる。値とで調べていたら、シュバイツァーは、日本の風月堂の「ゴーフル」が好物だったらしい。
〇杉原千畝 (1900~1986)
外交官。岐阜県武儀郡上有知町(こうずちちょう:現岐阜県美濃市)生まれ。早稲田大学高等師範部英語科在学中に、外務省留学生試験に合格し中退。第二次世界大戦中のリトアニアのカウナス領事館に赴任し、1940年からナチスドイツに迫害されていた人々に大量のビザ(通過査証)を発行した.その多くがユダヤ人であった。領事館閉鎖後は、チェコのプラハ、ルーマニアのブカレスト公使館に勤務した。「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。
<杉原千畝像>
場所:人道の丘公園杉原千畝記念館前(岐阜県加茂郡八百津町八百津1071)
竣工: 1992年3月
像高:
作者: 斉藤勝弘
撮影時:2023年3月27日
説明:海外では「ちうね」と発音しにくいことから、「せんぽ」の称で通っていたようだ。杉原千畝のサイトを調べていると、彼が評価された(見いだされた)のは彼の死後の1990年代からであることに驚いた。八百津町の人道の丘公園も2000年に設立されたし、それも外国からの抗議によるものからだったのも日本らしい。今は出身の名古屋の瑞陵高校、瑞穂ヶ丘中学校に銅像が立つ。アメリカ・ロサンジェルスのリトル東京にも銅像はある。なお東京の八重洲口に「杉原千畝“SEMPO”ミュージアム」(東京都中央区八重洲2-7-9相模ビル2F)がある。
〇明智光秀
略
<明智光秀像>
竣工:2020年6月
像高: 4.3㍍(台座含む)
作者:神部峰男
撮影時:2023年3月27日
説明:この地は、土岐明智次郎下野守頼兼が1342年に築城したとされる。頼兼は明智氏の祖、土岐美濃守光衡の5代目、頼清の次男。1556年に斎藤義龍の攻撃に落城した。城跡は、2020年のNKH大河ドラマ『麒麟がくる』に合わせて整備され、銅像もこの折に立った。ちなみに明知城址は、光秀出生の地とされる、恵那市にもある。
〇佐藤邦三郎 (1870~?)
政治家。可児郡郡議会議員から岐阜県会議員、豊岡町長を歴任。虎渓用水の建設、整備をおこない、それ以外にも地域の整備、発展に貢献した。
<佐藤邦三郎像>
場所:虎渓用水広場(岐阜県多治見市住吉町2-1-1)
竣工:1966年9月再建(最初は1928年に製作。4年に金属供出で撤去。1948年に陶製を製作も1965年に破損)
像高:
作者:斉藤二郎( 再建像)
撮影時:2023年3月27日
説明:毎年9月には像の前で慰霊祭が行われる。虎渓用水は、多治見市領域(当時は長瀬村)の水不足を解消するために土岐川から取水。江戸時代から計画されながら、開通したのは1902年。現在は暗渠化している。
像の場所は、丘の斜面にある(のに「広場」と称する)のだが、入り口付近は道が狭く、車だと像の背後の広い道(県道381号)がいい。ただし車を停めることがないので、工夫が必要(自分は廃墟したレストランのところに突っ込んで停めた)。