銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

東京 東大編  その2

〇濱尾新  (1849<嘉永2>年~1925<大正14>年)

 東大第3代、8代学長。文部大臣、貴族院議員、枢密院議長、内大臣。法学博士。但馬国豊岡藩主濱尾嘉平治の子。本郷キャンパスの整備に力を入れ、「土木総長」のあだ名も。1925年に自宅で散歩中、焚火をしていた穴に落ちて全身やけどで死去した。

 

f:id:tagutti:20190224131229j:plain

<濱尾新像>

場所:安田講堂南側(三四郎池の北側)

竣工: 1932<昭和7>年

像高:

作者: 堀進二

撮影時:  2019年1月14日

説明:椅子に座ったかなりデカい銅像。東大本郷キャンパスでも最大。足を組み、右手を頬にあてた思索のポーズである。銅像の様子からかなり傲慢な人かと思いきや、温厚でねばり強い性格だったらしい。 

f:id:tagutti:20190224131321j:plain

 (ちょっと遊んで撮ってみました)

 

エドワード=ダイヴァース  (1837<天保8>年~1912<明治45>年)

 イギリス人のお雇い外国人の化学者。工部大学校、帝国理科大学で教鞭をとる。ヨーロッパの理学・化学研究の最先端を日本に伝えた。日本に26年もおり、1899年に帰国するが、東大名誉教授となった。

 

f:id:tagutti:20190224131401j:plain

 <エドワード=ダイヴァース像>

場所:理学部化学館前

竣工: 1900<明治33>年

像高:

作者: 長沼守敬

撮影時:  2019年1月14日

説明:この像は移転が多かったらしく、当初は理学部1号館前あたりにあり、その後化学館(現在の位置に)、1941年に太平洋戦争が始まると、敵国人の像の撤去が求められたが、こっそりと図書館書庫で保管、1964年に科学館中庭に再建され、2005年に現在の位置に戻された。

 

 

山川健次郎  (1854<安政元>年~1931<昭和6>年)

 会津藩出身。少年時代には白虎隊士だった。1893年に26歳の若さで東京大学理学部物理学教授に。清廉潔白で、社会を導く人と言う意味で「星座の人」と呼ばれた。

東大の第6代、9代の総長(在任11年11カ月は最長)。京都帝国大学学長を東大総長と兼ね、九州帝国大学初代学長、貴族院議など要職を務めた。

 

f:id:tagutti:20190224131425j:plain

山川健次郎像>

場所:理学部1号館西側前(安田講堂裏手)

竣工: 1930<昭和5>年に銅像を作り、2006年に現在地に設置

像高:

作者:

撮影時:  2019年1月14日

説明:東大の銅像群では設置は2番目に新しい。これを作るのに調べていたら、2012年5月に九州大学伊都キャンパスに山川健次郎像胸像が立てられたの知った。ここにも行かねば!

  

〇青山胤通  (1859<安政6>年~1917<大正6>年)

美濃(岐阜県)出身。1882年に医科大学卒業後、ドイツに留学、内科学を専攻した。1901<明治34>年医科大学長となり、16年も学長を務めた。日露戦争で多くの兵氏の命を奪った「脚気」について、原因を感染症とした森林太郎(鷗外)説を支持した。また夏目漱石の『三四郎』の中にも登場する。

f:id:tagutti:20190224131456j:plain

<青山胤通像>

場所:医学部付属病院前

竣工: 1920<大正9>年

像高:

作者: 新海竹太郎

撮影時:  2019年1月14日

説明:医学部付属病院前に2体並ぶ胸像の左側の像。右肘をついた姿の像である。

東京 東大編 その1

 大学には、多くの銅像が鎮座しています。多くはその大学の教授たち。東京大学は、日本の最高峰だけあって多くの古い銅像が鎮座しています。本郷キャンパス(一部弥生キャンパス)と駒場キャンパスのものを紹介します。けっこう多くの像がいますが、実はこれだけではありません。校舎内の各研究室には無尽蔵に(?)銅像があると思われます。それが証拠に、東京駅丸の内口に隣接するKITTE内の“JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテク”には、先日訪問した際に数えただけでも10体以上の胸像(一部石膏像)が鎮座していました。インターメディアテク内は残念ながら撮影禁止なので撮れなかったのですが、展示されている標本などはわかりますが、胸像は撮影させてもらいたいものです。なお、ここは展示替えがあるので必ずしも同じ胸像に会えるとは限りません。

  

古市公威(1854<嘉永7>年~1934<昭和9>年)

 工学博士。フランスへ留学し工学士、理学士の学位を受領、帰国後内務省土木局と帝国大学講師を兼任、帝国大学工科大学の初代学長に就任した。内務省では初代土木技監として土木行政を仕切り、「近代土木界の最高権威」と称された。また鉄道行政にも携わり、東京地下鉄道(現東京メトロ)の初代社長にも迎えられた。

 司馬遼太郎は『この国のかたち』の中で、古市をかなり評価している。フランスの留学時代にあまりに勉強していることに呆れた下宿の女主人から「公威、身体を壊しますよ」と忠告されると、「私が一日休むと、日本が一日遅れるのです」と言ったという。こんなエピソードが載っている。 

f:id:tagutti:20190211115501j:plain

古市公威像>

場所:東京大学正門を入って左側

竣工: 1937<昭和12>年2月

像高:

作者: 堀進二

撮影時: 2019年1月14日

説明:東大本郷キャンパスで最初に会う銅像。正門をくぐって左側の工学11号館(スターバックスが入っている)の手前にある。右手に鳩杖を持ち(柄の所に鳩の彫り物が付く)、背広で椅子に座っている像である。作者の堀信二は大正~昭和期の彫刻家で、新海竹太郎の弟子。

 

 

〇ジョサイア=コンドル(1852~1920)

 イギリスの建築家。1877<明治10>年、お雇い外国人として来日し、さまざまな建築の設計を手掛けた。現存するものにニコライ堂御茶ノ水ロシア正教会大聖堂。正式名称「東京復活大聖堂」)、岩崎久弥茅町本邸洋館および憧球場(湯島の旧岩崎邸庭園に建つ)、古河虎之助邸(現旧古河庭園大谷美術館)、三菱1号館(本物は取り壊し、現在のものはレプリカ建築)、既にないものでは、東京帝国博物館本館、鹿鳴館など。また工部大学校(現東京大学工学部)教授として、辰野金吾・片山東熊・曽禰達蔵らを育てた。日本文化に傾倒し、河鍋暁斎に師事、「暁英」という号を与えられた。日本人と結婚し、日本に建築事務所を開き、死後護国寺に埋葬された。

f:id:tagutti:20190211115542j:plain

<ジョサイア=コンドル像>

場所:工学部1号館と工学部列品館の間の園地手前(工学部前広場)

竣工: 1923<大正12>年

像高:

作者: 新海竹太郎

撮影時:  2019年1月14日

説明:台座の上に立つ。右手に葉巻を持つかっこいいスタイル。台座の一番下には2体の邪鬼が彫られている。

f:id:tagutti:20190211115649j:plain


 

〇チャールズ=ディキンソン=ウエスト(1847~1908)

 アイルランド出身のお雇い外国人。1882<明治15>年に来日。機械工学と造船学を教え、生涯独身で、日本で亡くなった。青山墓地に墓がある。

 

f:id:tagutti:20190211115756j:plain

<チャールズ=ディキンソン=ウエスト像>

場所: 工学部1号館と法文1号館の間の園地(奥)

竣工: 1910年

像高:

作者: 沼田一雅(台座も)

撮影時:  2019年1月14日

説明:台座には、機械・造船所・製図器具(写真がない)のレリーフが嵌められている。 

f:id:tagutti:20190211115840j:plainf:id:tagutti:20190211115901j:plain

 f:id:tagutti:20190211115936j:plain

 

 

〇三好晋六郎(1857<安政6>年~1910<明治34>年)

 造船学者。明治期の日本の造船技術確立と技術教育に尽力した。工部大学校(現東京大学工学部)を首席で卒業してイギリスに留学、帰国後工部大学校の教授となり、造船学を教えた。1887<明治18>年には造船技術者育成のため工手学校<元工学院大学>を設立し、初代校長に就任した。1910年の講義中に死去した。 

f:id:tagutti:20190211120104j:plain

 <三好晋六郎像>

場所:工学部船舶試験水槽前(正門から入り、手前を左に曲がって突き当り付近)

竣工:1914<大正3>年

像高:

作者:武石広三郎

撮影時:  2019年1月14日

説明:像の右手下にある本のタイトルは『Manual of navel architecture(海軍建築マニュアル)』である。樹の陰になり、台座を見ると一部崩れているのは地震のせいか?

東京 桜新町編 【更新】

サザエさん

f:id:tagutti:20190209160006j:plain

(東急桜新町駅から長谷川町子美術館に向かう途中の桜新町交番前に設置されている)

 長谷川町子による国民的漫画。1946年4月から出身の福岡県のフクニチ新聞社の「夕刊フクニチ」に連載が始まり、1951年から「朝日新聞」での連載となった。4コマ漫画であり、サザエさんの磯野家での様々な出来事が描かれた。長谷川が病気となった1974年に連載は終わった(長谷川の死は1992年。1978年からは「サザエさんうちあけ話」が「朝日新聞日曜版」に連載された)。

 1969年~フジテレビでアニメ化。現在も続く国民的アニメ。日曜日の18:30から30分枠で、69年以降全く変わっていない。したがって、この番組のオープニングを見て日曜日の夕方であることを認識する国民が多い(らしい)。

 世田谷区の桜新町は長谷川が長年にわたり居住し、1985年に長谷川町子美術館が開館したため、「サザエさん通り」があり、2012年3月25日にに銅像が立てられた。

 2013年都税事務所がこの像に59万円弱の課税通知をしたため、問題となった。しかし10月納税免除となった。また波平像の髪の毛が2012年5月ごろ、二度にわたって抜かれる、という事件が起こっている。

 

 フグ田サザエ:主人公。結婚前は23歳だった。専業主婦。かなりそそっかしい性格で、好奇心旺盛。

 フグ田マスオ:サザエの旦那。32歳(アニメでは28歳)。大阪出身。サラリーマンでサザエとはお見合いで出会った。

 フグ田タラオ:サザエとマスオの間の一人息子。「タラちゃん」と呼ばれている。会話の最後に「~ですぅ」という。

 磯野カツオ:サザエの弟。11歳。いたずら好きで勉強は嫌い。でも頭の回転は速いのではないか?

 磯野ワカメ:サザエの妹。7歳(アニメでは9歳)。後ろ頭の刈り上げが印象的。わがまま。

 磯野波平:サザエの父。あの頭だが54歳の設定。したがって、まだサラリーマンで、マスオと会社帰りに連れ添ってよく飲んでいる。禿げ頭に毛が1本がチャームポイント。海平という双子の兄がおり、その差は髪の毛が2本であること。

 磯野フネ:サザエの母。50歳前後らしい。和装である。アニメでは「日本の母」の典型のような描かれたかである。

 (Wikipediaより)

f:id:tagutti:20190209160049j:plain

f:id:tagutti:20190209160114j:plain

 

f:id:tagutti:20190209160134j:plain

 

f:id:tagutti:20190209160158j:plain

以上4体は、東急田園都市線桜新町駅付近の中通りに設置されている。

f:id:tagutti:20190209160442j:plain

このセットは、長谷川町子美術館裏の「サザエさん公園(桜新町1丁目緑地)」に設置されている。

 

※なお、2017年1月に福岡県福岡市早良区西新6-2-92の西南学院大学の新図書館前広場(校内ではない)に、「サザエさん長谷川町子の立ち話像」が設置された。銅像の元となった、縮小版着色像が、福岡市早良さわら区役所1階に展示中。この縮小版は、中央区平尾にある母校の高等女学校(現県立福岡中央高校)にも寄贈されているそう。