銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

東京 東大編 その1

 大学には、多くの銅像が鎮座しています。多くはその大学の教授たち。東京大学は、日本の最高峰だけあって多くの古い銅像が鎮座しています。本郷キャンパス(一部弥生キャンパス)と駒場キャンパスのものを紹介します。けっこう多くの像がいますが、実はこれだけではありません。校舎内の各研究室には無尽蔵に(?)銅像があると思われます。それが証拠に、東京駅丸の内口に隣接するKITTE内の“JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテク”には、先日訪問した際に数えただけでも10体以上の胸像(一部石膏像)が鎮座していました。インターメディアテク内は残念ながら撮影禁止なので撮れなかったのですが、展示されている標本などはわかりますが、胸像は撮影させてもらいたいものです。なお、ここは展示替えがあるので必ずしも同じ胸像に会えるとは限りません。

  

古市公威(1854<嘉永7>年~1934<昭和9>年)

 工学博士。フランスへ留学し工学士、理学士の学位を受領、帰国後内務省土木局と帝国大学講師を兼任、帝国大学工科大学の初代学長に就任した。内務省では初代土木技監として土木行政を仕切り、「近代土木界の最高権威」と称された。また鉄道行政にも携わり、東京地下鉄道(現東京メトロ)の初代社長にも迎えられた。

 司馬遼太郎は『この国のかたち』の中で、古市をかなり評価している。フランスの留学時代にあまりに勉強していることに呆れた下宿の女主人から「公威、身体を壊しますよ」と忠告されると、「私が一日休むと、日本が一日遅れるのです」と言ったという。こんなエピソードが載っている。 

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古市公威像>

場所:東京大学正門を入って左側

竣工: 1937<昭和12>年2月

像高:

作者: 堀進二

撮影時: 2019年1月14日

説明:東大本郷キャンパスで最初に会う銅像。正門をくぐって左側の工学11号館(スターバックスが入っている)の手前にある。右手に鳩杖を持ち(柄の所に鳩の彫り物が付く)、背広で椅子に座っている像である。作者の堀信二は大正~昭和期の彫刻家で、新海竹太郎の弟子。

 

 

〇ジョサイア=コンドル(1852~1920)

 イギリスの建築家。1877<明治10>年、お雇い外国人として来日し、さまざまな建築の設計を手掛けた。現存するものにニコライ堂御茶ノ水ロシア正教会大聖堂。正式名称「東京復活大聖堂」)、岩崎久弥茅町本邸洋館および憧球場(湯島の旧岩崎邸庭園に建つ)、古河虎之助邸(現旧古河庭園大谷美術館)、三菱1号館(本物は取り壊し、現在のものはレプリカ建築)、既にないものでは、東京帝国博物館本館、鹿鳴館など。また工部大学校(現東京大学工学部)教授として、辰野金吾・片山東熊・曽禰達蔵らを育てた。日本文化に傾倒し、河鍋暁斎に師事、「暁英」という号を与えられた。日本人と結婚し、日本に建築事務所を開き、死後護国寺に埋葬された。

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<ジョサイア=コンドル像>

場所:工学部1号館と工学部列品館の間の園地手前(工学部前広場)

竣工: 1923<大正12>年

像高:

作者: 新海竹太郎

撮影時:  2019年1月14日

説明:台座の上に立つ。右手に葉巻を持つかっこいいスタイル。台座の一番下には2体の邪鬼が彫られている。

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〇チャールズ=ディキンソン=ウエスト(1847~1908)

 アイルランド出身のお雇い外国人。1882<明治15>年に来日。機械工学と造船学を教え、生涯独身で、日本で亡くなった。青山墓地に墓がある。

 

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<チャールズ=ディキンソン=ウエスト像>

場所: 工学部1号館と法文1号館の間の園地(奥)

竣工: 1910年

像高:

作者: 沼田一雅(台座も)

撮影時:  2019年1月14日

説明:台座には、機械・造船所・製図器具(写真がない)のレリーフが嵌められている。 

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〇三好晋六郎(1857<安政6>年~1910<明治34>年)

 造船学者。明治期の日本の造船技術確立と技術教育に尽力した。工部大学校(現東京大学工学部)を首席で卒業してイギリスに留学、帰国後工部大学校の教授となり、造船学を教えた。1887<明治18>年には造船技術者育成のため工手学校<元工学院大学>を設立し、初代校長に就任した。1910年の講義中に死去した。 

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 <三好晋六郎像>

場所:工学部船舶試験水槽前(正門から入り、手前を左に曲がって突き当り付近)

竣工:1914<大正3>年

像高:

作者:武石広三郎

撮影時:  2019年1月14日

説明:像の右手下にある本のタイトルは『Manual of navel architecture(海軍建築マニュアル)』である。樹の陰になり、台座を見ると一部崩れているのは地震のせいか?