銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

銅像情報 その14

鹿児島中央駅の「若き薩摩の群像」に藩外の2人を追加

 

 JR鹿児島中央駅前の幕末の薩摩藩英国使節団の記念碑「若き薩摩の群像」には、実際には使節団に加わりながら、薩摩藩出身ではないという理由で、長崎出身の堀孝之と、土佐(高知)出身の高見弥一が作られていなかった。しかし「排他的」と思われたくない、との理由もあり、実際に派遣された19人を記念碑の群像に加えることとなった。作者の中村信也氏が2体を新たに制作し、9月末に除幕式をおこなう予定だという。

 

高円宮憲仁像が立てられた

 

 日本サッカー協会は、千葉市美浜区に完成したサッカーのトレーニング施設「高円宮記念JFA夢フィールド」のエントランスホールに、高円宮の座像を作り、9月10日除幕式がおこなわれた。現在施設は、コロナの影響で入場を制限している。

 

③杉山和一像が作られた

 

 神奈川県藤沢市江島神社に、江戸時代の鍼灸師杉山和一検校の座像が設置され、9月4日にお披露目された。江の島は、杉山和一が修行をした場所。また墓所もある。像は、杉山検校の福石の脇にある。

 

 

自民党官房長官菅義偉氏の「立像」が、出身の秋田県湯沢市に立てられる?

 

 安倍晋三首相が病気で首相の座を降りて、後継者の総裁選が始まった。そうした中、有力候補の菅義偉官房長官の出身地、秋田県湯沢市では、胸像を立てるべく計画が進んでいた。しかしここに来て首相の目が有力になると、「立像」への計画変更の話が地元紙にも報じられた。仕えていた安倍首相の像も立ってないのに、本当に立てていいの?と思うのだが…?

徳島県編  その11

〇ルートヴィッヒ=ヴァン=ベートーヴェン (1770~1827)

 ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史上重要な作曲家の一人で、日本では「楽聖」と呼ばれている。その作品は、古典派音楽の集大成でかつロマン派音楽の先駆けとされる。 

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ベートーヴェン像>

場所:鳴門市ドイツ館(徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55-2)

竣工: 1997年5月

像高:

作者: ペーター=クッセール(ドイツ人彫刻家)

撮影時: 2014年1月7日

説明:鳴門市ドイツ館は、第一次世界大戦の敵国であったドイツ人の捕虜を収容した、「板東俘虜収容所」があったところ。1917年に開所し、当初953人が収容された。捕虜の処遇は寛大で、生活も自由にできた。その中で1918年、日本ではじめてベートーヴェン「第九」が演奏された。その関係でこの地にベートーヴェン像が立つ。なお、鳴門ドイツ館では、ドイツ兵の等身大ロボットによる「第九」の演奏が30分おきに繰り広げられている。

 なお、2018年6月に元収容所長「松江豊寿」像が新たに立てられた(撮れていない)。

 

賀川豊彦  (1888~1960)

 大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、無産政党運動、生活協同組合運動などに重要な役割を担った。日本農民組合創設者。兵庫県神戸市生まれ。4歳で父母を失うと、徳島県鳴門市東馬詰の本家に引き取られた。その徳島で受洗した。その後さまざまな活動に従事し、戦後にはノーベル文学賞、平和賞の候補にたびたび上がった。「友愛・互助・平和」を説いた。 

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賀川豊彦像>

場所:鳴門市立賀川豊彦記念館(徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55-2)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月7日

説明:館の入り口に立つ。なお賀川豊彦銅像は、かつて中野総合病院(現東京医療生協新渡戸記念中野病院)の脇の桃園川緑道沿いにあったが、破棄されてしまったらしい(ブログ「コラボ・コープOB」による)。また渋谷のコーププラザ玄関フロアに乾漆像の賀川豊彦像がある(小杉三郎作)。アメリカのワシントン大聖堂には賀川豊彦の彫像(石膏像か?)があるらしい。

 下記写真は、中野区にかつてあった「賀川豊彦」像。 

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〇中西仁智雄  (1915~1996)

 医師。徳島県板野郡松茂町生まれ。阿波(徳島県)の文化の伝承に熱心で、藍染めの復活運動や人形浄瑠璃芝居資料のコレクターとしても有名だった。 

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<中西仁智雄像>

場所:松茂町歴史民俗資料館(徳島県板野郡松茂町広島字四番越11-1)

竣工:

像高:

作者: 宮本光庸

撮影時: 2014年1月5日

説明:資料館の館内、中西仁智雄コレクションの展示の入り口にいる。中西氏は自分の人形浄瑠璃芝居のコレクションを1993年に町へと寄贈した。展示物は一見の価値がある充実したものである。

 

 

これ以外に、極楽寺(鳴門市大麻町桧字ダンノ上12)に「田淵義雄」像(四国八十八か所霊場巡りの「四国霊場会」特任大先達)。旧吉野川河口堰に「三木與吉郎」像(政治家、実業家)。があるが、今回は撮れなかった。

今回の徳島編は以上である。全62件。うち15体が未探索となった。この頃はまだ、像の作者などを気にしていなかったので、わからないものも多い。「日本の銅像探偵団」サイトがリニューアルされ、そうした点が強化されたものになっているので、再度回る時にはそのあたりを意識して周りたい。

徳島県編 その10

先週は、業務多忙で更新をサボってしまいました。申しわけありません。

 

〇秋田清 (1881~1944)

 政治家。衆議院議員(10期)、衆議院議長(第30代)。厚生大臣、拓務大臣を務めた。徳島県三好郡足代村(現徳島県東みよし町)出身。司法官、ジャーナリストを経て政界入り。立憲同志会立憲国民党革新倶楽部を経て、立憲政友会に属す。 

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<秋田清像>

場所:三好大橋北詰(徳島県三好市池田町州津西ノ久保付近)

竣工: 1956年11月

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月6日

説明:三好大橋を渡った北側橋詰、左側に立つ。右手にシルクハットを持った立像である。

  

〇赤川庄八 (1862~1948)

 林業家。阿波国池田町川崎(現徳島県三好市池田町)生まれ。1882年酒造業を起こし、その利益で山を買い、1900年林業を始めた。1935年に山城町下川と池田町大利を結ぶ大川橋を架け、土讃線祖谷口駅を誘致するなど、地域に貢献した。 

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<赤川庄八像>

場所:赤川橋(徳島県三好市池田町祖谷口

竣工: 2014年当時はそこまで調べていないのではっきりわからないが、寿像とあるので、1948年以前であろう。

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月5日

説明:説明文中の大川橋は、その後2代目赤川庄八が1962年に町に寄付したが、老朽化に伴い2018年に通行止めとなった。なお、像が立っているところの橋は、「赤川橋」と呼ばれ、庄八が1921年ごろ架橋した。山城町西宇と西祖谷村新道を結び、現在のものは庄八の孫の庄市が1975年に架けた2代目。現在は通行止めらしい。

 

〇児泣き爺(子泣き爺)  

 妖怪。徳島県三次郡山城町(現徳島県三好市)あたりが発祥とされる(『民間伝承』に論文が載る。柳田国男も『妖怪談義』に記述がある)が、郷土史研究家によると、この地に児泣き爺の伝説はないらしい。漫画家水木しげるが「ゲゲゲの鬼太郎」で取り上げ、主人公鬼太郎をサポートする役で描かれてから、一躍有名となった。

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<児泣き爺像>

場所:児泣き爺発祥の地(徳島県三好市山城町上名)

竣工: 2001年11月

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月6日

説明:石像である。郷土史家、多和田昌裕と地元の有志によってこの石像は立てられた。彼の研究によると、児泣き爺はこの地の伝承ではないが、かつてこの地に赤ん坊の泣き声をまねて奇声を発する実在の老人がいたことが分かっている。この話が混同していった可能性もある。

妖怪は町おこしに使われ、国道32号線から入るこの道(県道272号線)は、「妖怪街道」とされ、多くの妖怪が木像となって迎えてくれる。また国道沿いの「道の駅大歩危」内には、「妖怪屋敷と石の博物館」も作られた。また最寄り駅の土讃線大歩危駅には、児泣き爺の木像もある。また児泣き爺像

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の少し先には、「藤の里公園」があり、藤娘の像が立っている(このあたりは藤が多く、藤蔓が名産だったためらしい)。「藤娘」はもともと大津絵の画題で、その後日本舞踊で演目に取り入れたもの。 

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美馬市の美馬橋の南詰には、「真鍋博」立像(徳島県美馬郡つるぎ町半田中薮)が、吉野川北岸を少し西へ行った、美馬蚕糸館(徳島県美馬市谷口5)には、前田政太郎のレリーフ像がある。また祖谷というと有名な、祖谷渓の「小便小僧」像は、この銅像のカテゴリーに入れるかちょっと難しい。いずれも今回の探索では訪れることができなかった。