銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

香川県編 その5

 〇牛鬼 

 西日本に伝わる妖怪。主に海岸に現れ浜辺を歩く人間を襲う。根香寺(ねごろじ)には、江戸時代の初めにこの地にいた牛鬼が、山田蔵人高清に退治された。その角が高清によって根香寺に奉納され、現在も寺にあるという。

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<牛鬼像>

場所:根香寺香川県高松市中山町1506)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2019年1月28日

説明:根香寺に残されている掛け軸の絵を基に作られたようで、現在の青銅製の像の前に、陶器製の像があったらしい。怖いというよりもユーモラスな感じの像である。

 

 〇松浦伊平  (1890~1971)

 実業家、政治家。香川県阿野郡青梅村(現坂出市大屋富町)出身。土木請負業を設立し、その後松山村長、香川県議を経て、衆議院議員を2期務めた。戦後は公職追放され、その後香川県農業会長などをして、農業基盤整備に尽力した。 

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 <松浦伊平像>

場所:白峰パークセンター下(香川県坂出市高屋町2042-255)

竣工: 1972年3月

像高:

作者: 矢野秀徳

撮影時:2019年1月28日

説明:当初は調査しきれなかった像。根香寺から白峰寺を経て五色台を坂出方面へと降りていく途中に目に入った。近くが白峰パークセンターだったのでそこに車を入れて確認した。銅像探索中には自然と銅像の姿が目に入ってくることが多い。

  

〇瀬山登  (1784~1853)

 江戸時代の武士、丸亀藩(京極家)の藩士。名は重嘉、通称四郎兵衛。江戸屋敷留守居役をしている時に、金毘羅参詣の誘致をおこない、そのために丸亀港の拡張を図って、「新堀湛甫」を築造した。また金毘羅同燈籠(現太助燈籠)を建てたが、その多額の費用調達を成功させ、また丸亀に団扇生産の技術を持ち込み、金毘羅参詣の土産物として販売させた。

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<瀬山登像>

場所:太助燈籠(香川県丸亀市西平山町)

竣工: 1990年3月

像高:

作者: 矢野秀徳

撮影時:2019年1月28日

説明:太助燈籠のすぐ脇に坐る。銘文の経歴を見ると、現在的なアイディア豊富なビジネスマンであったようだ。

  

〇井上通女 (1660~1738)

 江戸時代の歌人丸亀藩京極家の家臣だった父は朱子学者、母は和歌などを嗜んだ。幼いころから優秀で、7~8歳ごろに『源氏物語』を諳んじていたという。長じて藩主の母の侍女となる。その後結婚して三男二女をもうけた。彼女が著した三冊の日記(『東海日記』『江戸日記』『帰家日記』)は三日記といわれ、「江戸文学の粋」とされた。貝原益軒が絶賛したという。 

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<井上通女像>

場所:城西小学校(香川県丸亀市六番丁12)

竣工: 1991年3月

像高:

作者:

撮影時:

説明:この地は井上通女の生誕地。小学校の校庭に「生誕地」の石碑が立つ。調査していくと、この像は1908年に高本勝四郎が作り、1932年に現在地に置かれたようで、1943年に金属供出で亡くなったものが、再建されたようだ。表面に塗装(?)の跡が残っている。近くの丸亀高校にはかつて「井上記念館」があり(現同窓会館)、通女の肖像画と木像があるそうだ。

  

〇倉田三朗 (?~?)

 教育者。戦後新制高校になったときの大手前丸亀高校の初代理事長兼校長。 

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<倉田三朗像>

場所:大手前丸亀中学校・高校(香川県丸亀市大手町1-6-1)

竣工: 1987年3月

像高:

作者:

撮影時:2019年1月28日

説明:正門を入ってすぐ右側にいる。門の高さが低く、敷地に入りやすいフレンドリーな作りである。丸亀城の真ん前の立地といい、丸亀市民から絶大な信用があると感じた。

  

〇警察犬きな子 (2003~2017)

 ラブラドールレトリバーの雌犬。香川県丸亀市生まれ。警察犬訓練所に生まれ、警察犬になるべく訓練をしていたが、障害物を乗り越えられず、顔から落下するなどの「ドジぶり」が評判となり、2010年には映画化されるまでになった(「きな子~見習い警察犬の物語」。7回目のチャレンジで好成績を収め、2011年に正式に警察犬となった。

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<警察犬きな子像>

場所:JR丸亀駅南口(香川県高松市浜町105-1)

竣工: 2018年12月

像高: 約60㎝

作者: 原銅像製作所(創業約400年の地元の会社)

撮影時:2019年1月28日

説明:地元有志によるクラウドファンディングで約460万円を集めて作られた。除幕式には「きな子」の子どもや孫の犬も参列した。銅像を撫でてもらえるように、台座は80㎝と低めにして作られた。

  

〇村山熊太 (1881~1975)

 教育者。香川県鵜足郡岡田西村(現丸亀市綾歌町)生まれ。東京第二中学、学習院などに勤務したのち故郷へ帰り、坂出実習女学校、坂出実習高校、香川短期大学などで教鞭をとった。著者などからみると国語の先生か?

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<村山熊太像>

場所:岡田小学校(香川県丸亀市綾歌町岡田下217)

竣工:

像高:

作者: 横山文夫

撮影時:2019年1月28日

説明:この地の出身で、岡田小学校の校歌を作ったという。

 

 

〇増田穰三 (1858~1939)

 農政家、政治家、華道家讃岐国那珂郡七箇村(現仲多度郡まんのう町)生まれ。農業をしながら華道を教えていた。七箇村長から香川県議会議員(3期)、衆議院議員(2期)。大浦事件で検挙、有罪となった。土讃線のルート決定に尽力したらしい。

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<増田穰三像>

場所:JR塩入駅(香川県仲多度郡まんのう町帆山179-2)

竣工: 1963年3月再建(当初像は1937年5月。1943年金属供出)

像高:

作者:

撮影時:2019年1月28日

説明:像は当初七箇村役場前に立てられていたようだ。

香川県編 その4

〇山川波次 (?~?)

 教育者。英明高校(明善高等女学校)の創設者、初代校長。 

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<山川波次像>

場所:英明高校香川県高松市亀岡町1-10)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2014年12月7日

説明:英明高校の正面入り口付近にある。通りから見えるし、そこまではフェンスや校門がない。ただし写真は校地に入らずに道路から撮影したため暗い。 

 

三木武吉 (1884~1956)

 政治家。自由民主党結党による保守合同の立役者。愛媛県高松市(現香川県高松市)生まれ。司法官から弁護士となる。1917年から1956年に亡くなるまで衆議院議員を11期務める。「ヤジ将軍」「政界の古狸」の異名を持つが、大臣経験は一度もなかった。

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三木武吉像>

場所:栗林公園外(香川県高松市中野町30)

竣工: 1958年9月

像高:

作者:

撮影時:2014年12月7日

説明:高松駅から栗林公園に向かう中央通り沿いにいる。経歴を読むと、「豪放磊落」を地でいったような人物だったようだ。いいお顔である。銅像脇の説明書きに「一般から募金して」とあるのがわかる気がした。

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〇松平頼壽(まつだいらよりなが) (1874~1944)

 政治家、教育者。明治から昭和期にかけての華族(伯爵)。貴族院議員。貴族院議長、旧制本郷中学校(現本郷中・高)を創設、大東文化学院(現大東文化大学)総長などを歴任した。旧高松藩の最後の藩主松平頼聰(まつだいらよりとし)の八男。盆栽を趣味とし、「小品盆栽」(20cm前後の小鉢を集めて棚飾りの妙を演出)を始めた先駆者。

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<松平頼壽像>

場所:栗林公園内(香川県高松市栗林町1-20)

竣工: 1934年

像高:

作者: 藤川勇造

撮影時:2014年12月7日

説明:栗林公園内の北西の奥地にいる。像の作者、藤川勇造は高松市出身の彫刻家。日本人で唯一、直接ロダンのもとで学んだ。

  

〇ジャコモ=プッチーニ (1858~1924)

 イタリアの作曲家。『蝶々夫人』『トスカ』などのオペラで知られる。正式名は、「ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ」。

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 <ジャコモ=プッチーニ像>

場所:プッチーニの小路(香川県高松市鍛冶屋町4-1)

竣工:

像高:

作者: 池田清史

撮影時:2014年12月7日

説明:高松市の街中の繁華街の細い路地の入口(フェスタビル2の前)にいる。何でもある会社が「街の活性化」を図るために、東京の「モーツァルトの小路」(東京都渋谷区の竹下通りの南裏側)をモチーフに創案したらしい。像の製作者が、プッチーニの遺族と知り合いだったために、胸像の製作が許されたという。

 

〇『父帰る』 

 高松市出身の作家菊池寛の代表戯曲『父帰る』(1917年)をモチーフにした像。登場人物は、黒田賢一郎(一番右端の像。長男)、新二郎(左から二番目の立ち腰の像。次男)、おたね(妹)、おたか(母)、宗太郎(左側の立っている像。父)の5人であり、像ではすべての人物が再現されている。 

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父帰る像>

場所:香川銀行本店前(香川県高松市亀井町6)

竣工:1995年2月

像高:

作者: 池川直

撮影時:2014年12月7日(下記の写真は2019年1月28日)

説明:この前の通りを「菊池寛通り」と呼ぶが、そのことを市民に印象付ける目的で設置された。 

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〇中繁治 (1890~1955)

 経営者、政治家。香川県木田郡庵治村(現高松市庵治町)生まれ。庵治に農協を設立し活躍した。 

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<中繁治像>

場所:JA香川県庵治支店(香川県高松市庵治町浜5824−3)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2019年1月28日

説明:庵治(あじ)の町をGoogleストリートで探索中に発見する。ヒロ団長御推奨の農協施設である。竣工年はわからないが、結構古い像と思われる。

  

弘法大師 略 

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弘法大師像>

場所:八栗寺香川県高松市牟礼町3416)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2019年1月28日

説明:八栗寺は「四国88か所霊場巡り」の85番札所である。この像は石像である。表参道を歩いて上がってくると(今はケーブルカーで上がることができる)最初に出会うので、「お迎え大師」と呼ばれている。大変景色が良く、正面右手に屋島、その奥に高松の市街が臨める。

  

〇木喰以空 (?~?)

 江戸時代初期の僧侶。摂津国箕面勝尾寺の住職。西日本各地に歓喜天を勧請していたようだ。ちなみに「木喰」とは、火食・肉食を避け、米穀を断ち、木の実などだけを食べて修行すること。 

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<木喰以空像>

場所:矢栗寺(香川県高松市牟礼町3416)

竣工: 1965年

像高:

作者: 鈴木基弘か?(「基弘」のサインあり)

撮影時:2019年1月28日

説明:「天尊行者」として有名だった木喰以空が、八栗寺歓喜天を勧請し、寺の繁栄の基を築いたということで作られた。像は自画像を基に作られた。本堂から多宝塔に向かう途中の、地蔵堂の手前にいる。彼はあちこちの寺の復興をしていたようで、「山崎の戦い」で有名な京都府大山崎町の観音寺(山崎聖天)の中興もしている。また八栗寺の立つ五剣山は、ゴツゴツとした岩山で、西側に立つ山頂の平らな屋島とは好対照である。 

 

〇岡佳吉 (1884~1958)

 農政家。香川県の牟礼農協の創設者。香川県農業協同組合中央会会長。

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<岡佳吉像>

場所:JA香川県牟礼支店(香川県高松市牟礼町1147-3)

竣工: 1962年9月

像高:

作者: 横山文夫

撮影時:2019年1月28日

説明:中繁治像と同じく、JA支店をGoogleストリートで眺めているときに発見。同像は、JR高松駅前の「JA香川県本店」にもいるはずだが、2019年1月当時は、建物を新築中で「宮脇朝男」像ともども発見できなかった。

 

 

那須与一 (1169?~1190?)

 平安時代末期の武将。那須資隆(宗隆とも)。下野国那須郡那珂川町(現栃木県)生まれか?幼いころから弓の腕が達者で、『平家物語』では、屋島の戦いの際に、平氏軍の美女が、揺れる小舟の竿の先に就けられた扇の的を射よと挑発。源義経那須与一を指名した。与一が神仏の加護を祈って鏑矢を放つと矢は見事に的の柄を射抜いた。とのエピソードがある。 

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那須与一像>

場所:新川橋香川県高松市屋島西町)

竣工: 1992年

像高:

作者:

撮影時:2019年1月28日

説明:この像は、最近よく見る橋の欄干に立てられた像で、道路の反対側には、扇を止めた竿を持つ、女性の像も立っている。像は橋の両サイドの欄干にいる)対岸の女官を撮るのを忘れていた)。

香川県編 その3

〇糸より姫  (1314~1382)

 南北朝室町時代の女性。後醍醐天皇の第二皇女とされる。南北朝の争乱の中、1338年に讃岐国玉藻浦西浜に流れ着き、現地の漁師らから温かく迎えられた。その後漁師の乙吉と結ばれ、1男6女を設けたとされる。「糸より姫」とは、漁網の修理のために糸を脇で紡いでいたことから。姫の詠んだ「日に日にに網糸つぎむおぐるまの糸より浜となをのこすらむ」から、このあたりを「糸よりの浜」と呼ぶようになったとか。 

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 <糸より姫像>

場所:糸より神社(香川県高松市浜ノ町17)

竣工: 1970年10月

像高: 1.7m

作者: 新田藤太郎

撮影時:2019年1月28日

説明:高松駅から10分ほどの漁港に面した小さな神社にいる。神社の建物よりも銅像の方が大きいくらいだ。上の経歴では1314年生まれとし、後醍醐天皇の皇女としているが、あくまでも伝説上の人である。

後醍醐天皇の皇女として実在がわかっているのは、懽子内親王(1315~1362)と祥子内親王(1322?~1352?)で、二人とも伊勢神宮斎宮となっている。祥子内親王はおそらく最後の斎宮らしい。もう一人中宮の珣子内親王との間に皇女がいるが、名前が残っていない(幸子内親王という人物が比定されるらしい)。

  

生駒親正 (1526~1603)

 戦国期から江戸時代初めの武将、大名。美濃国可児郡土田(現岐阜県可児市土田)生まれ。織田信長豊臣秀吉の家臣として、長篠合戦、石山合戦などで活躍した。1587年に讃岐国を与えられ、高松城丸亀城を築城した。 

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生駒親正像>

場所:二番町公園(香川県高松市番町2-13-8)

竣工: 1996年3月

像高:

作者: 三枝惣太郎

撮影時: 2019年1月28日

説明:この地を「高松」と名付けたのは親正である。なおこの像は石像であろう。地域住民の総意で立てられたようだ。またもう少し小さな座像が、公園の反対側にある「新番丁小学校」の校長室にもあるらしい(こちらは銅像のようだ)。

  

大平正芳 (1910~1980)

 官僚、政治家。香川県三豊郡和田村(現観音寺市)生まれ。衆議院議員(11期)、内閣官房長官外務大臣通産大臣、大蔵大臣を歴任し、1978年の自民党総裁選に勝って、第68代内閣総理大臣となった。任期中に第二次石油ショックソ連アフガニスタン侵攻などがあり、また元号法を制定した。1979年の総選挙で自民党過半数を割り込むと、党内抗争(俗に「四十日抗争」)が起こり、翌年社会党が内閣不信任案を出すと、自民党内の反主流派が同調して衆議院解散となった(ハプニング解散)。この年は参議院選挙の年であったので衆参選挙となり(日程は別)、そのさ中、大平は心不全で亡くなった。その結果いわゆる「弔い選挙」となって、自民党が圧勝した。 

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大平正芳像>

場所:香川大学経済学部(香川県高松市幸町2-1)

竣工: 1971年

像高:

作者: 矢野秀徳

撮影時:2019年1月28日

説明:この像は、香川大学の同窓会である「又信会」が立てたもので、大平正芳は、香川大学経済学部の前身の高松高等商業学校の卒業生ある。像は、敷地東側の法学部門を入ってすぐ右の交友会館の脇に立つ。

このほかに、出身地の観音寺の豊浜八幡宮に全身像、豊浜公民館に胸像が立つ。

 

〇隈本繁吉  (1873~1952)

 文部官僚、教育者。福岡県生まれ。文部省入省後、朝鮮総督府事務官、台湾総督府国語学校校長を経て、高松高等商業学校の初代校長、大阪高校長、岡山第六高等学校長などを歴任した。 

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 <隈本繁吉像>

場所: 香川大学経済学部(香川県高松市幸町2-1)

竣工: 1956年11月

像高:

作者: 新田藤太郎

撮影時:2019年1月28日

説明:像は敷地北側の経済学部門を入った、南7号館の前に立つ。同窓会の「又信会」の生みの親である。

 

〇小河謙三郎 (?)

 「おごう」と呼ぶようだが、もともと小河家は高松藩下の豪商の家柄のようだ。

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<小河謙三郎像>

場所:高松中央公園(香川県高松市番町1-11)

竣工: 1986年12月(この日付は中央公園ができて、銅像が移転した日付であろう)

像高:

作者:

撮影時:2019年1月28日

説明:ここ中央公園はもともと1947年にできた中央球場の跡地(1981年廃止)で、もともとこの像は中央球場にあったものである。おそらく氏が土地を寄贈して中央球場ができたのであろう。像は公園中央に近い、石垣を模した場所にいる。

  

水原茂 (1909~1982)

 プロ野球選手、監督。香川県高松市生まれ。旧制高松商業学校(現高松商業高校)で甲子園に出場し、1925年夏と27年夏の二回優勝した。その後慶応大学に進学し、春夏通算5度の優勝。1931年、34年の大リーグ選抜来日時に全日本チームに選ばれる。1936年巨人に入団し、三塁手のレギュラーとなる。1938年には投手も務める。1950年に監督兼任となり、51~53年にリーグ三連覇、日本一。その後もリーグ制覇などをするが、1960年に東映フライヤーズの監督となり、1962年には日本一となった。1969年~71年は中日ドラゴンズの監督となった。 

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 <水原茂像>

場所:高松中央公園(香川県高松市番町1-11)

竣工: 1993年12月

像高:

作者: 渡邉庄三郎

撮影時:2019年1月28日

説明:かつての野球王国香川県水原茂と三原修がその両巨頭なので、この地に二人の像があるのは納得である。先に述べたとおり、この公園はもともと野球場なので、昔のホームベース付近にはその形の石が埋め込まれているらしい。後ろから写真を撮っていないが、水原の背番号は30(巨人の監督時代の背番号)。どうも戦後すぐの時代の監督は、皆30の背番号だったようだ。

 

三原脩 (1911~1984

 プロ野球選手、監督。香川県仲多度郡神野町(現まんのう町)生まれ。丸亀中学から高松中学へ転校し、1928年の夏の甲子園大会に出場、ベスト4まで進む。その後早稲田大学に入学し、二塁手として活躍する。1934年に大日本東京野球倶楽部へ入団するが、すぐ徴兵される。1936年に東京巨人軍に入団し三塁手として活躍した。戦後1947年に巨人軍の総監督、1950年には西鉄(現ソフトバンクホークス)の監督になり、54年、56~58年とリーグを制覇した。56~58年は巨人を破って日本一となっている。その後1960年に大洋(現横浜ベイスターズ)の監督となり、リーグ制覇、日本一(~67年まで監督)。1968~70年には近鉄(現楽天イーグルス)、1971~73年はヤクルトの監督となった。その後日本ハムファイターズが発足すると、代表取締役兼球団代表となった。

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三原脩像>

場所:高松中央公園(香川県高松市番町1-11)

竣工: 1993年12月

像高:

作者: 渡邉庄三郎

撮影時:2019年1月28日

説明:三原の像の背番号は「60」。大洋時代の背番号だ。西鉄時代から水原・三原はライバル関係と言われ、大洋では前年最下位からの優勝を遂げている。銅像は、向かって左が水原、右が三原である。なお「修」の字は、親に名付けられたのはこれであるが、西鉄監督就任時に「脩」とし、晩年には戸籍上も「脩」となったそうだ。

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中央公園のやや南、菊池寛像から中に入ったところに立つ。(両像はこのように並び立つ)
 

菊池寛 (1888~1948)

 小説家、劇作家、ジャーナリスト、実業家。「きくちかん」だが、本名は「きくちひろし」。香川県高松市生まれ。高松中学から紆余曲折を経て第一高等学校へ進む。ここには親友となる芥川龍之介久米正雄らがいた。京都帝国大学へ進み、作家となる。その後『文藝春秋』を創刊し、会社を興して社長となる。芥川の自殺後、「芥川賞」「直木賞」を創設した。 

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菊池寛像>

場所:高松中央公園(香川県高松市番町1-11)

竣工: 1956年10月

像高:

作者: 新田藤太郎

撮影時:2019年1月28日

説明:中央公園の北東側の通り(中央通り=国道30号線)に面して立つ。公園の北側は「菊池寛通り」と名付けられた。また高松市昭和町1-2-20にある「サンクリスタル高松」3Fには「菊池寛記念館」がある。エントランスには菊池寛の胸像がある(下記)。  

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〇国東照太 (1887~1972)

 「くにとうてるた」。政治家、実業家。1938年に高松市会議員となり、1946~67年まで高松市長。一方で「トキワグループ」の創業者でもあった。香川県香川郡中ノ村(現高松市中野町)生まれ。高松市立商業学校に入るも父の死で中退。家業の製紙業を始める。その後会社を大きくしていった。 

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<国東照太像>

場所:高松中央公園(香川県高松市番町1-11)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2014年12月6日(2014年の方がよく撮れているので)

説明:元市長だけに台座が一番しっかりしている気がするが、作者などがわからない。公園の北東角近くにいる。

 

〇玉堵象谷 (1806~1869)

 「たまかじぞうこく」。江戸末期の漆工家。本名は藤川為造、通称は正直または敬造。讃岐国高松磨屋町生まれ。父から漆と彫刻の技を習得し、高松藩主松平頼恕(よりひろ)から印籠の製作を命じられて以降松平家に仕え、玉堵姓を授かる。藩を代表する漆芸品を作るようになった。香川漆器の源流。 

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<玉堵象谷像>

場所:高松中央公園(香川県高松市番町1-11)

竣工:1958年4月

像高:

作者:新田藤太郎

撮影時:2019年1月28日

説明:中央公園の北東の駐車場出口側にいる。