銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

熊本県編  その5

〇益田艶子 (?~?)

 ときわ幼稚園、専修学校常盤学院(旧常盤家政調理師専門学校)の創設者。 

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<益田艶子像>

場所:常盤学院(熊本市中央区本荘町683-2)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日

説明:和裁、洋裁などの服飾系学科を2010年に閉校し、調理師・パティシエに特化したため、学校名が変更されている(現在シェフパティシエ学院となっている)。すぐ脇にはときわ幼稚園がある。

 

〇益田千代子 (?~?)

 常盤学院2代目理事長。 

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<益田千代子像>

場所: 常盤学院(熊本市中央区本荘町683-2)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日

説明:常盤学院の本部棟の脇に益田艶子像と並んで立っている。熊本地震のせいか、台座部分に虎ロープが巻いてあった。

 

〇上塚周平 (1876~1935)

 ブラジル移民の父。熊本県下益城郡杉上村(現熊本県南区城南町)生まれ。東大卒業後、皇国殖民会社の第1回ブラジル行き移民の輸送監督権会社代理人として、1907年笠戸丸に乗船し、ブラジルに行った。しかしさまざまな問題から移民が定着しなかった。しかしその後もこの事業に携わり、ブラジルの日本移民が生活できるように自ら移民事業を興し、27年にわたってこの事業を推進した。 

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<上塚周平像>

場所:火の君総合文化センター(熊本市南区城南町舞原394-1)

竣工: 2007年10月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月3日

説明:周平像は、ブラジルのサンパウロ市リベルダーデ区のラルゴ・ダ・ポルボラ日本庭園にも立つ(1978年6月建立)。この地には「日本移民の4英傑(水野龍・平野運平・宮崎八郎・上塚周平)」像がある(水野龍像は、鉄板を貼り合わせた珍しい像)。

 

西住小次郎 (1914~1938)

 日本陸軍の軍人。熊本県上益城郡甲佐町生まれ。日中戦争の第二次上海事変から徐州会戦まで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。徐州会戦中に戦死した(戦死後中尉から大尉へ昇進)。その後軍部から正式に「軍神」とされ、歌謡曲や映画にまでなった。 

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西住小次郎像>

場所:西住公園(熊本県上益城郡甲佐町仁田子1228)

竣工: 1978年5月17日

像高:

作者:

撮影時:2018年2月3日

説明:戦車の司令塔から身を乗り出す姿らしい。右手に持つ旗は、戦死時に戦車の渡渉地点を探す際に持っていた指揮官旗。竣工日は、戦死した日である。

  

〇高橋守雄 (1883~1957)

 内務官僚。熊本県上益城郡浜町(現山都町)生まれ。警視庁警視から各県警察部長、内務部長を歴任し、1922年には熊本市長、その後滋賀県知事、長野県知事兵庫県知事を歴任、1934年には警視総監となった。退官後熊本に戻ると、熊本商科大学(現熊本学園大学)を開校し、初代学長となった。 

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<高橋守雄像>

場所:中央公民館(熊本県上益城郡山都町下市33-1)

竣工: 2014年11月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月3日

説明:熊本市の高橋公園(後述します)、熊本学園大学熊本市中央区大江2-5-1。こっちは訪問していません…)にも胸像がある。

 

〇廣津又蔵  (1883~?)

 林業功労者。熊本県上益城郡矢部町(現山都町)生まれ。終生を林業に捧げた。

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<廣津又蔵像>

場所: 中央公民館(熊本県上益城郡山都町下市33-1)

竣工: 1966年7月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月3日

説明:碑文の説明を読む限りでは、竣工時にはまだご存命であった可能性が高い。おそらく勲章授与を記して作られた銅像であろう。

 

 〇宮部鼎蔵(みやべていぞう) (1820~1864)

 幕末の武士(熊本藩士)、尊王攘夷派の志士。肥後国益城郡田代村(現上益城郡御船町)生まれ。町医師の家に生まれたが、叔父の宮部家の養子となり、山鹿流軍学を学ぶ。1861年肥後勤皇党に参加し、京都で長州藩と共に活動する。1864年池田屋事件新選組に急襲され、奮戦するが及ばずに自刃した。 

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 <宮部鼎蔵像>

場所:鼎春園(熊本県上益城郡御船町上野2215)

竣工: 2005年6月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日

説明:鼎春園は、宮部鼎蔵とその弟春蔵を顕彰するために地元の人々によって1913年に作られた公園。すぐ裏には生家がある。正面にはとても大きな顕彰碑がある。弟は長州藩禁門の変に出陣し、敗れて天王山で自決した。

 

〇岩永三五郎 (1793~1851)

 江戸時代後期の石工。種山石工(熊本県八代郡種山手永で活躍した石工集団)の中心的人物。肥後国八代郡西野津村(現氷川町)生まれの説が有力。父や藤原林七に石工の技術を学び、特にアーチ式の石橋をつくる技術を会得した。多くの石橋を築造したが、代表作は、雄亀滝橋(熊本県美里町)、聖橋(熊本県山都町)や鹿児島県の甲突川五石橋。肥後藩では八代の干拓工事にも携わり、その功績により苗字帯刀を許された。 

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 <岩永三五郎像>

場所:鏡町芝口の墓地(熊本県八代市鏡町芝口1-58-3)

竣工: 1996年10月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月3日  

説明:石像である。本人が石工なので石像が妥当であろう。手に持つのは曲尺だろうか。この地は三五郎の墓所である。三五郎の人生については、『肥後の石工』(今西祐行)がわかりやすい(児童文学。自分が小学生の時の課題図書で読んだ記憶がある)。石橋のつくり方などは鹿児島県に石橋記念館(鹿児島市浜町1-3)が詳しいが、ここにも三五郎の石像が立つ。薩摩藩では情報漏れを防ぐために、三五郎に刺客を送ったそうだが(幸い殺されることはなかった)、現在では観光資源となっている。

 

〇古城弥二郎 (1857~1912)

 熊本県の官僚。八代郡長として八代海干拓工事を完成させた。

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<古城弥二郎像>

場所:郡築神社(熊本県八代市郡築六番町46-1)

竣工: 1959年3月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月3日   

説明:近くには、八代地域の農業開発、発展に尽力した松田喜一像(松田神社:熊本県八代市昭和日進町157)がある。今回の調査中に発見したので、当然写真はない…。

熊本県編 その4

熊本県編その1の書き出しに、「最終日の人吉近郊から熊本空港に戻る過程の像の写真がなくなっていて、ちょっとショックです。」と書いたのですが、今日ブログを書くために写真を確認していたら、八代・人吉・錦町の銅像の写真を見つけて、当初の行程と逆ルートで3日目に回っていたことが判明しました。ちょっと安心しました。写真の整理ができていない結果です。記憶も当てにならない年齢に達したということですね…

 

〇佐々友房 (1854~1906)

 教育者、政治家。肥後国熊本(現熊本市坪井町)生まれ。藩校時習館に入り、水戸学に傾倒。西南戦争では薩軍に身を投じ、田原坂の戦いに参戦し、重傷を負う。その後熊本で同心学舎(のちの済々黌高)を創設した。さらに済々黌附属女学校(現尚絅高校)も創設した。その後「九州日日新聞」を発行、国権主義を唱え、さらに第1回選挙から衆議院議員となった(9期)。 

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<佐々友房像>

場所:済々黌高校(熊本市中央区黒髪2-22-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日   

説明:正門を入り、右側正面にいる。

  

〇井芹経平(いせりつねひら) (1865~1926)

 教育者。熊本県甲佐町生まれ。東京高等師範学校を経て、済々黌教師となり、30歳で校長となる。30年にわたって校長の職にあり、済々黌の「三綱領」の基づく学校教育に取り組んだ。 

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 <井芹経平像>

場所:済々黌高校(熊本市中央区黒髪2-22-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日   

説明:正門を入り、左側手前にいる。

 

〇荒木精之 (1907~1981)

 小説家、思想家。熊本県阿蘇郡生まれ。小学校卒業後、郵便局に入るが義憤から辞め、20歳で日本大学へ入学し、小説家となる。帰郷後神風連の戦いの研究を始め、小説家、本屋の経営をしながら郷土の歴史をまとめていった。 

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 <荒木精之像>

場所:桜山神社神風連資料館(熊本市中央区黒髪5-7-57)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2018年2月2日

説明:資料館は、神風連の乱の関係者を祀った桜山神社の境内にある。ネット検索すると、熊本県立図書館に荒木精之像があると見えるが、もしかするとこの資料館と同一像かもしれない。

 

〇細川忠利 (1586~1641)

 江戸時代の大名。豊前小倉藩2代藩主、肥後熊本藩初代藩主。細川忠興の3男として生まれる。江戸幕府の2代徳川秀忠、3代家光から信頼が厚く、3男ながら家督を継いだ。

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<細川忠利像>

場所:水前寺成趣園水前寺公園)(熊本市中央区水前寺公園8-1)

竣工: 1979年

像高:

作者:

撮影時: 2018年2月2日

説明:水前寺成趣園は、忠利が作った「水前寺御茶屋」に始まる大名庭園。綱利が「成趣園」と名付けた。1878年に園内に細川家の歴代藩主を祀る出水神社が創建され、園は神社の社地となった。像は出水神社の創建100年を機に立てられた。

  

細川藤孝 (1534~1610)

 戦国時代から江戸初期の大名。三淵晴員の子として京都東山に生まれ、7歳で細川家へ養子として入る。13代将軍義藤(のち義輝)から偏諱を受けて藤孝と名乗る。義輝の死後、その弟の義昭の将軍擁立に奮闘し、織田信長を頼る。やがて信長を主君とし、嫡男忠興を明智光秀の娘玉(ガラシャ)と娶せる。本能寺の変後剃髪して幽斎と名乗る。豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は徳川家康に接近した。関ケ原の戦いの際には、丹後田辺城に籠城し、東軍の勝利に貢献した。三條西実枝から古今伝授を受け、八条宮智仁親王にこれを授けるなど、文化人としても一流であった。

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細川藤孝像>

場所:水前寺成趣園水前寺公園)(熊本市中央区水前寺公園8-1)

竣工: 2011年

像高:

作者:

撮影時: 2018年2月2日

説明:藤孝は熊本には縁がないが、熊本藩細川家の祖となるため、藤孝の没後400年を機に銅像が立てられた。

 

加藤清正 略 

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 <加藤清正像>

場所:健軍神社参道(熊本市中央区神水1-34-20)

竣工: 2017年7月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日

説明:「健軍神社参道」と書いたが、神社の境内までは相当離れていて(約1㎞。もうちょっと西の大鳥居までは「八丁馬場」と呼ばれる)、参道と国道57号線の健軍交差点付近に立っている。加藤清正像は大阪や名古屋にもあるが、騎馬像は珍しい。清正の生誕450年を記念しての像である。

  

横井小楠 (1809~1869)

 幕末の武士、儒学者熊本藩士。肥後国熊本城下内坪井町(現熊本市)生まれ。諱は時存(ときひろ/ときあり)。熊本藩で藩政改革に失敗したが、のちに福井(越前)藩に招聘され、幕政改革や公武合体の推進などで活躍する。明治維新後新政府の顧問として活動するが、1869年1月京都で暗殺された。

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横井小楠像>

場所:小楠公園熊本市東区沼山津4-11)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:小楠公園は、小楠の遺髪を埋葬した場所。記念碑も立っているが、その碑文は、徳冨蘇峰(父の徳冨一敬が小楠の弟子)。近くに小楠の旧宅「四時軒」と横井小楠記念館があり、ここにも銅像があるが、2014年の熊本地震の半壊し、行った時には見学ができなかった。また資料館には高木第四郎(小楠の弟子で、熊本に乳牛育成事業を展開した人物)の像もある。

 

〇安香堯行(あこうたかゆき) (1855~1928)

 薬学者。静岡県生まれ。東京大学卒業後、大阪薬専、名古屋薬専の教授を務め、熊本薬学校(のち九州薬学専門学校から熊本薬学専門学校)の校長を務めた。 

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<安香尭行像>

場所:熊本大学薬学部大江キャンパス(熊本市中央区大江本町5-1)

竣工: 1928年10月(1943年金属供出、1952年12月再建)

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:銅像の碑文によると、当初像の完成は安香の存命中だったようだ。新生熊本大学に薬学部ができて時に旧台座に再建をしたようだ。

  

〇村山義温(むらやまよしあつ) (1883~1980)

 薬学者。内務省衛生試験所技師を経て、熊本薬学専門学校長となる。その後東京薬学専門学校長、東京薬科大学学長を歴任した。 

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<村山義温像>

場所: 熊本大学薬学部大江キャンパス(熊本市中央区大江本町5-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:この像はレリーフ像である。東京薬科大学には胸像があるらしい(この大学には池口慶三、下山順一郎、丹波敬三各氏の胸像が校舎内に点在しているようだ。https://archives.toyaku.ac.jp/pdf/20170426153011610.pdf)。

 

松前重義 (1901~1991)

 官僚、政治家、教育者。熊本県上益城郡嘉島町生まれ。東北帝国大学工学部電気工学科卒。逓信省に入省、新体制運動に傾倒し、大政翼賛会の総務部長にもなる。一方で航空科学専門学校などをつくり、科学教育の普及を図る。戦後公職追放となるが、解除後衆議院議員(6期)。東海大学を作り、財力などない中で現在の総合大学にした。 

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松前重義像>

場所: 熊本県上益城郡嘉島町上島2571

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:当初の探索時には見つけられず、探索旅行のときに発見した像である。当日は記念館の門が開いておらず、裏からこっそりと侵入したことを思い出す。

熊本県編 その3

加藤清正 (1562~1611)

 安土桃山期から江戸初期の武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。尾張国愛知郡中村村(現愛知県名古屋市中村区)生まれ。刀鍛冶の息子。羽柴秀吉との血縁から、秀吉に小姓として仕え、賤ケ岳の戦いでは敵将を討ち取る武功を上げ、「賤ケ岳の七本槍」の一人と呼ばれる。その後はどちらかというと財務官僚的な働きが多く、肥後国人一揆後に肥後国に入ったのも、その統治能力を評価されてのようだ。築城の名手としても有名で、熊本城はその代表作である。その統治能力の高さから領民にも慕われ、熊本では「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれている。 

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加藤清正像>

場所:八景水谷公園(熊本県北区八景水谷1-878-1)

竣工: 1925年3月(1984年に修復)

像高:

作者: 甲斐青萍(かいせいひょう)の原図を松原象雲(まつばらしょううん)が塑彫

撮影時:2018年2月2日

説明:この像は塑像である。1925年に開かれた「国産共進会」(熊本市で開かれた博覧会)の会場中央に設けられた大噴水塔の上に設置されたもの。博覧会の終了後、この公園に移設され、1984年に樹脂によって修復された。清正が治水土木を指揮した雄姿を表わしているそうだ。 

 

宮本武蔵 (1584~1645)

 江戸時代初期の武将、剣術家。二天一流兵法の開祖。出生地は多説あり、播磨国(現兵庫県加古川市兵庫県高砂市)、美作国(現岡山県美作市など)。自作の兵法書の『五輪書』によれば、多くの決闘に勝利し(吉岡一門との決闘、佐々木小次郎との巌流島の決闘など)、大坂の役、島原の乱にも出陣したとされる。1640年に熊本藩主細川忠利から客分として招かれ、熊本で亡くなった。 

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 <宮本武蔵像>

場所:武蔵塚公園熊本県北区龍田弓削1-1232)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:武蔵塚公園宮本武蔵墓所である。一説によると、自らの死後も藩主を見守りたいという遺言から、大津街道(藩主が参勤交代で江戸に向かう時通る道)沿いのこの地に墓が作られ、籠手や脛当てなどの武具を帯びた立ち姿で葬られたと言われる。ただし、その墓所熊本市島崎(西の武蔵塚)、泰勝寺(熊本市黒髪)、岡山県英田郡など多岐に及ぶ。おそらく像のモデルは、島田美術館の肖像画だと思われる。

 

〇鳩野宗巴(はとのそうは) (1844~1917)

 江戸末期から明治期の医師。肥後国熊本生まれ。江戸時代から続く医師の家の生まれであり、銅像の人物は8代目。1868年の彰義隊の戦いに従軍し、負傷兵の治療に従事、1877年の西南戦争の際には敵味方なく負傷兵の治療にあたり、その後は医者の育成、貧民への嘱託医などをした。西南戦争前後から日本でも生まれた赤十字運動の先駆けと言われている。 

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 <鳩野宗巴像>

場所:拝聖院(熊本県北区室園町12-53)

竣工: 1999年10月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:歴代医師だった鳩野家であるが、本来は「中島」姓であった。この初代が、江戸前期にオランダに密出国して医学を学び医者となり、佐賀藩主の飼い鳩の負傷を治して、「鳩の医者」から「鳩野」姓となったという。残念ながら10代目で医者としての血筋は絶えたという。 

 

加藤清正 略

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加藤清正像>

場所:本妙寺熊本県西区花園4-13-1)

竣工: 1960年4月再建(1935年4月に立てられるも1944年金属供出)

像高: 8.2m

作者: 北村西望

撮影時:2018年2月2日  

説明:本妙寺は、熊本藩主加藤家の菩提寺。1585年に清正の父の菩提寺として大坂に立てられ、清正の肥後入国後熊本城内に移され、清正の逝去後さらに現在地に移設された。本堂の後、300段の階段を上がると大きなこの像に会える。ただし車でも像の足元まで行けるらしい。像のいるところの高さは熊本城天守閣と同じ高さだという。像が立ったのは、清正の没後325年忌の記念事業としてのことだった。

 

〇安達謙藏 (1864~1948)

 政治家。肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ。当初ジャーナリストとして朝鮮半島で新聞を発行、日清戦争にも従軍し、1895年の閔妃殺害事件にも関与した。帰国後熊本国権党を創設、衆議院議員として1902年から14回連続当選、立憲同志会に入った1914年の選挙で与党の大勝に貢献し、徳冨蘇峰から「選挙の神様」と評された。内務大臣、逓信大臣を歴任した。

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<安達謙藏像>

場所:三賢堂公園(熊本県西区島崎5-32-27)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日

説明:三賢堂は、謙藏が1936年に熊本市民の精神修養の場として建立し、堂内に菊池武時(田島亀彦作)、加藤清正朝倉文夫作)、細川重賢(長谷秀雄作)が肥後の三賢人として安置されている。今回はそのまま行ったので堂内には入れなかったが、熊本市が管理しているので、事前に連絡をすれば入ることができるようだ。また敷地内には謙藏の旧居の「原泉荘」が建っている。また1933年には横浜に八聖殿(現横浜市八聖殿郷土資料館)を設置している。「八聖」とは、キリスト・ソクラテス孔子・釈迦・聖徳太子弘法大師親鸞日蓮で、それぞれの像と安達謙藏氏の胸像がある。なお、三賢堂には駐車場はないが、下の叢桂園の駐車場を使えばいいらしい(ちょっと離れているが)。

  

夏目漱石 (1867~1916)

 明治期の小説家、英文学者。本名は夏目金之助。江戸の牛込下横町(現東京都新宿区喜久井町)生まれ。帝国大学英文科卒業後、愛媛県尋常中学校教諭、熊本県の第五高等学校教授を務めたのち、イギリスに留学し、帰国後は東京帝国大学講師となった。その傍ら『吾輩は猫である』を発表して評判となる。その後朝日新聞社に入社、様々な作品を執筆した。 

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夏目漱石像>

場所:熊本大学黒髪北キャンパス(熊本県西区黒髪2-40-1)

竣工: 1962年

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:漱石の伸ばした左手で頭をなでてもらうと頭が良くなると言い伝えられている。

 

〇龍南健児

 旧制第五高等学校のこと。この学校が龍田山の南に位置したことから。 

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 <龍南健児像>

場所:熊本大学黒髪北キャンパス(熊本県西区黒髪2-40-1)

竣工: 1997年10月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:旧制五高の100周年記念で立てたそうです。だいたい旧制高校の跡地に行くと、こうした像が残されていますね。

  

小泉八雲 (1850~1904)

 ギリシャ生まれ(出生当時はイギリス領、1864年ギリシャ領のレフカダ島)の新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家。本名はパトリック=ラフカディオ=ハーン。父はアイルランド人。1890年にアメリカの出版社の通信員として来日、そのまま日本に居つき、松江・熊本・神戸・東京で英語教師をしながら、日本文化を海外に発信し続けた。

松江時代の1891年に小泉節子と結婚、1896年に日本に帰化して、「小泉八雲」と名乗る。 

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小泉八雲像>

場所:熊本大学黒髪キャンパス(熊本県西区黒髪2-40-1)

竣工: 2004年9月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:レリーフ像である。八雲の没後100年を記念して立てられた。

<更新>小泉八雲レリーフは、「小泉八雲旧居(熊本市中央区安政町2-6)」にもある。

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