銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

熊本県編 その4

熊本県編その1の書き出しに、「最終日の人吉近郊から熊本空港に戻る過程の像の写真がなくなっていて、ちょっとショックです。」と書いたのですが、今日ブログを書くために写真を確認していたら、八代・人吉・錦町の銅像の写真を見つけて、当初の行程と逆ルートで3日目に回っていたことが判明しました。ちょっと安心しました。写真の整理ができていない結果です。記憶も当てにならない年齢に達したということですね…

 

〇佐々友房 (1854~1906)

 教育者、政治家。肥後国熊本(現熊本市坪井町)生まれ。藩校時習館に入り、水戸学に傾倒。西南戦争では薩軍に身を投じ、田原坂の戦いに参戦し、重傷を負う。その後熊本で同心学舎(のちの済々黌高)を創設した。さらに済々黌附属女学校(現尚絅高校)も創設した。その後「九州日日新聞」を発行、国権主義を唱え、さらに第1回選挙から衆議院議員となった(9期)。 

f:id:tagutti:20210523173746j:plain

<佐々友房像>

場所:済々黌高校(熊本市中央区黒髪2-22-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日   

説明:正門を入り、右側正面にいる。

  

〇井芹経平(いせりつねひら) (1865~1926)

 教育者。熊本県甲佐町生まれ。東京高等師範学校を経て、済々黌教師となり、30歳で校長となる。30年にわたって校長の職にあり、済々黌の「三綱領」の基づく学校教育に取り組んだ。 

f:id:tagutti:20210523173938j:plain

 <井芹経平像>

場所:済々黌高校(熊本市中央区黒髪2-22-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日   

説明:正門を入り、左側手前にいる。

 

〇荒木精之 (1907~1981)

 小説家、思想家。熊本県阿蘇郡生まれ。小学校卒業後、郵便局に入るが義憤から辞め、20歳で日本大学へ入学し、小説家となる。帰郷後神風連の戦いの研究を始め、小説家、本屋の経営をしながら郷土の歴史をまとめていった。 

f:id:tagutti:20210523174039j:plain

 <荒木精之像>

場所:桜山神社神風連資料館(熊本市中央区黒髪5-7-57)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2018年2月2日

説明:資料館は、神風連の乱の関係者を祀った桜山神社の境内にある。ネット検索すると、熊本県立図書館に荒木精之像があると見えるが、もしかするとこの資料館と同一像かもしれない。

 

〇細川忠利 (1586~1641)

 江戸時代の大名。豊前小倉藩2代藩主、肥後熊本藩初代藩主。細川忠興の3男として生まれる。江戸幕府の2代徳川秀忠、3代家光から信頼が厚く、3男ながら家督を継いだ。

f:id:tagutti:20210523174230j:plain

<細川忠利像>

場所:水前寺成趣園水前寺公園)(熊本市中央区水前寺公園8-1)

竣工: 1979年

像高:

作者:

撮影時: 2018年2月2日

説明:水前寺成趣園は、忠利が作った「水前寺御茶屋」に始まる大名庭園。綱利が「成趣園」と名付けた。1878年に園内に細川家の歴代藩主を祀る出水神社が創建され、園は神社の社地となった。像は出水神社の創建100年を機に立てられた。

  

細川藤孝 (1534~1610)

 戦国時代から江戸初期の大名。三淵晴員の子として京都東山に生まれ、7歳で細川家へ養子として入る。13代将軍義藤(のち義輝)から偏諱を受けて藤孝と名乗る。義輝の死後、その弟の義昭の将軍擁立に奮闘し、織田信長を頼る。やがて信長を主君とし、嫡男忠興を明智光秀の娘玉(ガラシャ)と娶せる。本能寺の変後剃髪して幽斎と名乗る。豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は徳川家康に接近した。関ケ原の戦いの際には、丹後田辺城に籠城し、東軍の勝利に貢献した。三條西実枝から古今伝授を受け、八条宮智仁親王にこれを授けるなど、文化人としても一流であった。

f:id:tagutti:20210523174335j:plain

細川藤孝像>

場所:水前寺成趣園水前寺公園)(熊本市中央区水前寺公園8-1)

竣工: 2011年

像高:

作者:

撮影時: 2018年2月2日

説明:藤孝は熊本には縁がないが、熊本藩細川家の祖となるため、藤孝の没後400年を機に銅像が立てられた。

 

加藤清正 略 

f:id:tagutti:20210523174446j:plain

 <加藤清正像>

場所:健軍神社参道(熊本市中央区神水1-34-20)

竣工: 2017年7月

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日

説明:「健軍神社参道」と書いたが、神社の境内までは相当離れていて(約1㎞。もうちょっと西の大鳥居までは「八丁馬場」と呼ばれる)、参道と国道57号線の健軍交差点付近に立っている。加藤清正像は大阪や名古屋にもあるが、騎馬像は珍しい。清正の生誕450年を記念しての像である。

  

横井小楠 (1809~1869)

 幕末の武士、儒学者熊本藩士。肥後国熊本城下内坪井町(現熊本市)生まれ。諱は時存(ときひろ/ときあり)。熊本藩で藩政改革に失敗したが、のちに福井(越前)藩に招聘され、幕政改革や公武合体の推進などで活躍する。明治維新後新政府の顧問として活動するが、1869年1月京都で暗殺された。

f:id:tagutti:20210523174612j:plain

横井小楠像>

場所:小楠公園熊本市東区沼山津4-11)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:小楠公園は、小楠の遺髪を埋葬した場所。記念碑も立っているが、その碑文は、徳冨蘇峰(父の徳冨一敬が小楠の弟子)。近くに小楠の旧宅「四時軒」と横井小楠記念館があり、ここにも銅像があるが、2014年の熊本地震の半壊し、行った時には見学ができなかった。また資料館には高木第四郎(小楠の弟子で、熊本に乳牛育成事業を展開した人物)の像もある。

 

〇安香堯行(あこうたかゆき) (1855~1928)

 薬学者。静岡県生まれ。東京大学卒業後、大阪薬専、名古屋薬専の教授を務め、熊本薬学校(のち九州薬学専門学校から熊本薬学専門学校)の校長を務めた。 

f:id:tagutti:20210523174753j:plain

<安香尭行像>

場所:熊本大学薬学部大江キャンパス(熊本市中央区大江本町5-1)

竣工: 1928年10月(1943年金属供出、1952年12月再建)

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:銅像の碑文によると、当初像の完成は安香の存命中だったようだ。新生熊本大学に薬学部ができて時に旧台座に再建をしたようだ。

  

〇村山義温(むらやまよしあつ) (1883~1980)

 薬学者。内務省衛生試験所技師を経て、熊本薬学専門学校長となる。その後東京薬学専門学校長、東京薬科大学学長を歴任した。 

f:id:tagutti:20210523174907j:plain

<村山義温像>

場所: 熊本大学薬学部大江キャンパス(熊本市中央区大江本町5-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:この像はレリーフ像である。東京薬科大学には胸像があるらしい(この大学には池口慶三、下山順一郎、丹波敬三各氏の胸像が校舎内に点在しているようだ。https://archives.toyaku.ac.jp/pdf/20170426153011610.pdf)。

 

松前重義 (1901~1991)

 官僚、政治家、教育者。熊本県上益城郡嘉島町生まれ。東北帝国大学工学部電気工学科卒。逓信省に入省、新体制運動に傾倒し、大政翼賛会の総務部長にもなる。一方で航空科学専門学校などをつくり、科学教育の普及を図る。戦後公職追放となるが、解除後衆議院議員(6期)。東海大学を作り、財力などない中で現在の総合大学にした。 

f:id:tagutti:20210523175038j:plain

松前重義像>

場所: 熊本県上益城郡嘉島町上島2571

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2018年2月2日  

説明:当初の探索時には見つけられず、探索旅行のときに発見した像である。当日は記念館の門が開いておらず、裏からこっそりと侵入したことを思い出す。