銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

神奈川県編  その14

〇大庭景義 (1128?~1210)

 平安末期から鎌倉初期の武将。景能とも。桓武平氏の支流、鎌倉権五郎景正の曾孫。父は大庭景宗。大庭御厨(伊勢神宮へ寄進された荘園。今の藤沢市、寒川町、茅ケ崎市にまたがる)の中の懐島郷(現在の神奈川県茅ケ崎市辺り)を本拠とし、懐島太郎と称した。若くして源義朝に従い、保元の乱で負傷し、歩行困難となる。以降家督は弟景親に任せたが、源頼朝が挙兵すると、弟とは袂を分かち、頼朝に帰参する。草創期の鎌倉幕府において、長老格として働いた。

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<大庭景義像>

場所:円蔵神明大神宮(神奈川県茅ヶ崎市円蔵2282)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2009年12月6日

説明:神明大神宮の社殿の裏にいる石像。この地は「懐島館(城)」の址と言われ、景義の住んだところ。大庭御厨が伊勢神宮に寄進されたことから、神社も伊勢神宮末社である。

 

〇中村文造 (1873~1931)

 農政家、官僚。神奈川県愛甲郡中津村(現愛川町)生まれ。脇島家の次男で、後に中村家に養子に入った。養蚕を中心に従事し、中津村の収入役、助役、村長を歴任、さらに郡議会議員などを務めた。

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<中村文造像>

場所:小沢双葉児童遊園地(神奈川県愛甲郡愛川町角田4654付近)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2016年7月2日

説明:台座の碑文を読むと、当初はコンクリート像だったようだが、1968年に銅像に代わった。しかし近年の台風で、像に倒木が直撃したようで、2019年に複製された銅像になったようだ(竹中銅器のサイトによる)。場所は、相模川の右岸、相模原市側から高田橋を渡り、すぐに左折したところにある公園である。

 

〇草山貞胤  (1823~1905)

 神職、報徳家。秦野市にタバコ栽培を普及させた農政家。1888年出雲大社の分祠を建てた(当初は渋沢峠にあったが、1975年に現在地に遷る)。

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<草山貞胤像>

場所:出雲大社相模分祠(神奈川県秦野市平沢1221)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2016年9月10日

説明:境内の左奥に2体ある。一体は胸像、冠を被った姿(上記)である。もう1体は立像である(下記)。立像はおそらく1991年制作と思われる。

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○関野作次郎 (1859~1935)

 篤農家。農業技術者。相模国大住郡名古木(ながぬき)村(現神奈川県秦野市)生まれ。草山貞胤に師事し、1896年に栃木県煙草栽培実業教師となる。翌年生まれた神奈川県秦野市で秦野試験場技師となった。秦野に煙草栽培を普及させた。

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<関野作次郎像>

場所:JAはだの本所(神奈川県秦野市平沢477)

竣工: 2010年6月?

像高:

作者:

撮影時:2016年9月10日

説明:現在も生家が残されているようだ。

 

〇権田直助 (1809~1887)

 国学者神道家。医者。武蔵国入間郡毛呂本郷(現埼玉県入間郡毛呂山町)生まれ。幼名は玄常。医術は野間廣春院、漢学は安積艮斎、国学平田篤胤に学ぶ。相良総三らと尊王攘夷運動に関わり、維新後は大学校の設立に尽力し、皇典講究所文学部教授、神道本局顧問となる。晩年大山阿夫利神社および三島大社宮司となった。

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<権田直助像>

場所:大山阿夫利神社下社(神奈川県伊勢原市大山355)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2010年1月16日

説明:境内に上がり、本殿の左側にいる。いろいろと調べると廃仏毀釈に際して、けっこうと寺院の破却をしていたようだ。阿夫利神社のちょっとしたにある「大山寺」などはその影響をかなり受けただろう。なお、下社の本殿から階段を下がる途中の左側に内山岩太郎の立像もある(前述)。

神奈川県編  その13

ガラスのうさぎ  

 高木敏子(1932~)の作者自身の実話に基づく戦時体験のノンフィクション作品の主人公。太平洋戦争の空襲において、12歳のとき目の前で、この二宮駅前でガラス職人の父を失った。両親の妹たちの33回忌に出した自費出版の『私の戦争体験』が編集者の目に留まり、この作品が生まれた。

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ガラスのうさぎ像>

場所:JR二宮駅南口(神奈川県中郡二宮町二宮833-4)※駅前の青果店の住所

竣工:1981年 8月

像高:

作者:圓鍔勝三

撮影時:2022年1月30日

説明:上記の説明の通り、著者の体験に基づくものなので、この像は高木敏子さんとしてもいいだろう。手には、母と妹たちを失った東京大空襲の際に残された、溶けて歪んだガラスのうさぎを持っている。像の立った日は、二宮駅の空襲で父を失った日である。

 

〇大森正男と米子 正男は(1907~1994)

 大森薬品の創業者。山梨県南都留郡忍野村生まれ。1962年に平塚カントリークラブ平塚コースをオープン、1965年には大磯コースも開設した(のち平塚富士見カントリークラブと改称)。大磯町に住み、大磯町観光協会会長として、吉田茂像や沢田美喜レリーフ像設立に尽力した。

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<大森正男と米子像>

場所:レイクウッドゴルフクラブ(神奈川県中郡大磯町黒岩169)

竣工:1977年9月

像高:

作者: 米林勝三(鋳造は堺幸山。製作会社は高岡鋳芸社)

撮影時:2022年1月30日

説明:像は平塚市側から入ると、クラブハウス入り口を過ぎて、大磯町側に抜ける途中の右側にある。寿像であり、銘板には自身の文もはめられている。社長とは思えない姿の像であるが、いろいろとネットを探ると、大森氏がこのゴルフコースに心血を注いだ様子が見て取れる(芝の育成の話とか)。レイクウッドゴルフクラブは、1970年に完成したゴルフコース。高級法人専用のゴルフコースのようだ。当時は隣の平塚富士見カントリーコースが高級、このレイクウッドゴルフクラブはパブリックであったようだが。

大森正男は郷土でも英雄で、出身の忍野村役場の裏手にも立像が立つ。

 

〇斎藤卯一 (?~?)

 1925年創業のサイトウミート創業者。食肉卸の会社。

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<斎藤卯一像>

場所:サイトウミート(神奈川県平塚市寺田縄235)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年1月30日

説明:新幹線の線路の近くにある。敷地内に販売店が併設されているが、その奥の自宅前に像は立つ。

 

太田道灌 (1432~1486)

 室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した武将。武蔵守護代扇谷上杉家の家宰。諱は資長。太田資清の子。生まれは不明だが、埼玉県越生町との記録あり。父から扇谷上杉家の家宰を継ぐと、享徳の乱(1455~1483)を戦い、江戸城を構築し、長尾景春の乱を抑えた。この結果扇谷上杉家の勢力は増したが、道灌の名声も高まり、これを不満に思った主君上杉定正により、定正の居館糟谷館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、入浴後に暗殺された。結果関東地方の混乱が高まり、北条早雲の関東介入を招いたとされる。

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太田道灌像>

場所:伊勢原市役所(神奈川県伊勢原市田中348)

竣工:1975年10月

像高:

作者:慶寺丹長

撮影時:2022年1月30日

説明:この像は相模観光株式会社が寄贈したもの。伊勢原市は「伊勢原道灌まつり」が開かれるなど、道灌押しである。道灌の殺された「糟谷館」は所在不明とされていたが、近年の研究で、大山に登る途中の「産業能率大学情報マネジメント学部」のキャンパスのある台地が該当地とされるようになった。

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岡崎義実 (1112~1200)

 平安末期から鎌倉時代初期の武将。三浦氏の傍系岡崎氏の祖。三浦義明の弟。相模国大住郡岡崎に因んで「岡崎市」を名乗る。1180年の源頼朝の挙兵に従い、石橋山の戦いでは嫡男与一義忠を失ったが、その後も頼朝に従い、御家人となった。三浦一族だが、居住地や相模西部を支配した中村宗平一族との婚姻関係などから、中村党に属すると言った方がよい。1213年の和田合戦で、岡崎氏は和田義盛方に属して敗れ、壊滅した。

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岡崎義実像>

場所:岡崎公民館(神奈川県平塚市岡崎3624)

竣工:2001年3月

像高:

作者: 「祥寛?」と読める自署があるが…

撮影時:2022年1月30日

説明:岡崎氏が住していたという「岡崎館」跡は、公民館の裏手の丘の上にある岡崎神社辺りらしい。頼朝の挙兵時に高齢だったらしく(逆算すると60歳。当時は高齢になりますね)、像も老齢の姿である。

神奈川県編  その12

〇江成久兵衛 (1817~1900)

 江戸末期から明治初めの商人、農政家。相模国高座郡田名村久所生まれ。江戸末期の田名地区は烏山藩下野国)の支配地だったが、相模川河岸段丘上にあるため、水が乏しかった。1858年に用水路の工事をしたが、台風で起きた洪水ですべてが無に帰した。そこで地元で水事業をしていた江成久兵衛が再度開発して、岩盤を穿ち、堤防を築いて、28年の歳月を経て成功し、田名地区に田んぼが広がった。

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<江成久兵衛像>

場所:相模川ふれあい科学館(神奈川県相模原市中央区水郷田名1-5-1)

竣工:2000年10月

像高:

作者:

撮影時:2009年12月6日

説明:像は、田名公民館の当時の副館長で、久兵衛の子孫の人が、当時の服装で像のモデルになったという。米俵の上に坐っている。

 

〇照手姫 

 伝説上の姫。上溝に住む横山将監の娘。敵方の武将小栗判官と恋仲になり、照手姫は小栗の元に走り、父の横山将監は,小栗によって滅ぼされたという。

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<照手姫像>

場所:ミウィ橋本7F(神奈川県相模原市緑区橋本3-28-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2016年7月2日

説明:ミウィ橋本の7F「杜のホールはしもと」入り口に立つ。照手姫は、相模原の上溝や下溝地区に伝説が残っているようで、墓は藤沢市清浄光寺遊行寺)の長生院にあるという(小栗判官の墓も)。小栗判官伝説は、遠く和歌山県の熊野地区にもあり(峰の湯温泉の「つぼ湯」)。さらに横浜市金沢区の六浦地区に話があるなど、全国的な話となっているようだ。

 

源義経 (1159~1189)

 平安末期の武士。清和源氏源義朝の九男。幼名は牛若丸。平治の乱で父が死に、奥州藤原氏に匿われるが、兄源頼朝の挙兵に馳せ参じ、平氏打倒の軍に入ると、摂津の一の谷、讃岐の屋島長門の壇ノ浦と活躍し、平家滅亡を成し遂げた。しかし、その後兄の頼朝と不仲となり、奥州藤原氏を頼って逃げるも、藤原泰衡に攻められて討ち死にした。

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源義経と弁慶像>

場所:白旗神社(神奈川県藤沢市藤沢2-4-7)

竣工:2019年10月

像高:

作者:奈部雅昭(竹中銅器)

撮影時:2022年1月30日

説明:この地は、奥州で亡くなった義経の首が埋葬された場所に近く、義経の霊を「白旗大明神」として白旗神社になったとされる。弁慶塚もこの近くにある。

 

〇渡辺光治 (~1942)

 海軍軍人。1942年2月の「クーパン」攻略戦で海軍特別陸戦隊として活躍し、戦死した。

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<渡辺光治像>

場所:宮之前公民館の前(神奈川県藤沢市鵠沼神明3-3-17)※宮之前公民館の住所

竣工:1942年か?

像高:

作者:

撮影時:2022年1月30日

説明:万福寺近くの墓所に立つ(宮之前公民館のほぼ向かい)。この辺りは、鵠沼地区の墓所が集められたところのようで、万福寺近くの通りの両サイドに墓地が続く。渡辺光治の墓は、道路の反対側の家の脇にひっそりと立つ。太平洋戦争当初の戦死は、銅像を立てるくらいの余裕があったようだ。銅像の顔が幼いところがつらい。

 

〇一遍  略

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<一遍像>

場所:清浄光寺遊行寺)(神奈川県藤沢市西富1-8-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年1月30日

説明:本堂の右側に立つ。『一遍上人絵伝』などに描かれる姿よりも優しげなお顔である。