銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

鹿児島県編  その18

先週は、青森県をハンティングしていました。すみません。青森県はそのうちアップします。

 

松方正義 (1835~1924)

 政治家、財政家。薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現鹿児島県鹿児島市)生まれ。島津久光にかわいがられ、明治維新後は明治政府に出仕、太政官札贋造事件を暴いて、大久保利通から評価され大蔵官僚として活躍。明治14年の政変後、日本銀行を創設し、日本銀行券を発行、政府の財政の立て直しを図った。これは国内に深刻なデフレーションを招いたために、「松方デフレ」と呼ばれた。1885年の内閣制度発足時には、大蔵大臣となり、その後2度の内閣総理大臣就任(1891~92、1896~98)をしている。薩長元勲のうち、勤皇志士の活動歴のない珍しい人物である。

松方正義像>

場所:武之橋(鹿児島県鹿児島市下荒田1-18-4)

竣工:2008年5月

像高:

作者: 田畑功

撮影時:2020年3月22日

説明:像の製作は老子製作所。像は生誕地の近くの甲突川右岸緑地に立っている。生誕地は河川敷の銅像のところから南に入ったところ。

 

〇乃木静子 (1859~1912)

 幕末から明治期の女性で、陸軍大将乃木希典の妻。薩摩国鹿児島郡鹿児島近在塩屋村(現鹿児島県鹿児島市)生まれ。鹿児島藩医湯地定之の末子。幼名お七(お志知)。明治に入り、家族で東京に移住し、数えで20歳の時伊地知幸介や野路鎮雄らの勧めで乃木希典と結婚した。日露戦争に夫希典や息子二人(勝典・保典)が出征し、息子二人は戦死、夫も率いていた軍は大苦戦をした。夫はその後明治天皇の推挙により、学習院長となり、皇孫(のちの昭和天皇)の養育を命じられた。1912年明治天皇が亡くなると、9月13日の大喪の礼の時に自刃したが、静子も夫と共に自刃した。

<乃木静子像>

場所:乃木静子生誕地(鹿児島県鹿児島市加治屋町5)

竣工:2016年11月

像高:90㎝

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:もともと1919年にここに静子像があった(村野山人夫妻が建立。原型は大塚秀之丞)が、太平洋戦争時に金属供出で失われ、台座のみが残っていた。2012年の「静子夫人没後百年顕彰祭」で像の再建の声が上がり、2016年に再建された。像の製作は老子製作所。因み山口県下関市乃木神社には、夫婦の像がある。

 

五代友厚 略

 薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島県鹿児島市長田町)生まれ。

五代友厚像>

場所:泉公園(鹿児島県鹿児島市泉町5-13)

竣工:1961年 11月

像高:

作者:坂上政克

撮影時:2020年3月22日

説明:当初は、国道10号線の長田陸橋の一角にあったが、1981年3月にこの地に移設された。五代友厚像は、鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」中と大阪に4体(大阪証券取引所光世証券大阪商工会議所大阪市立大学)にある。

 

〇丹下梅子 (1873~1955)

 化学者、栄養学者。丹下ウメとも。日本女性で2番目の農学博士(一番は辻村みちよ)。鹿児島県鹿児島府下金生町(現鹿児島県鹿児島市金生町)生まれ。幼年時に右目を失明している。鹿児島師範学校を卒業して小学校教師を経て、日本女子大学家政科に入学、その後東北帝国大学理科大学化学科へ入学する。大学では有機化学を学び、卒業後大学助手を経て、渡米して、ジョン・ホプキンス大学で栄養学の博士号を取得した。その後日本では農学博士の学位を受けた。生涯独身であった。

<丹下梅子像>

場所:山形屋前(鹿児島県鹿児島市金生町3-1)

竣工:1993年1月

像高:

作者:楠元香代子

撮影時:2020年3月22日

説明:生誕地側(生誕地は山形屋の少し先の「朝日通」電停の道路反対側<リッチモンドホテルそば>に碑が立っている)で、山形屋の中町ベルク通り沿いのところに立つ。

 

〇岩崎與八郎 略

<岩崎與八郎像>

場所:鹿児島県商工会議所(鹿児島県鹿児島市東千石町1-38)

竣工:1992年10月

像高:

作者:中村晋也

撮影時:2020年3月22日

説明:商工会議所の1Fロビーにある。商工会議所ビルは15階建てと大きく、三井住友銀行鹿児島支店ほか多くのテナントが入り、決して出入りのしにくいところではない。

 

大久保利通 (1830~1878)

 幕末の武士、明治期の政治家。通称は正助、一蔵。明治維新の元勲で、西郷隆盛木戸孝允と共に「維新の三傑」と呼ばれる。薩摩国鹿児島城下高麗町(現鹿児島県鹿児島市高麗町)生まれ。薩摩藩士の子。藩校造士館で、西郷隆盛税所篤などと仲間となる。島津久光に信任され、京都で活躍し、文久の改革を推進、その後は倒幕の動きをすすめる。1866年倒幕の密勅を得るが、大政奉還によって頓挫、12月に王政復古の大号令を計画し実行、徳川慶喜の失脚を推進した。

明治維新後は、明治政府の中央集権体制確立に尽力し、政府のリーダーとなる。1878年に紀尾井坂の変で暗殺された。

大久保利通像>

場所:高見橋東詰(鹿児島県鹿児島市西千石町1))

竣工:1979年 9月

像高:

作者:中村晋也

撮影時:2020年3月22日

説明:鹿児島の人々にとって、西郷隆盛を殺したに等しい大久保は人気がなく、銅像が立てられたのは明治維新100年後の1979年である。像には「為政清明(政治をおこなうものは清らかであるべし)」という座右の銘の説明版がある。明治初期の政府予算のない中、私財を投じてそれを補填したため、死後も借金が残っていたという。

鹿児島県編  その17

今回は、鹿児島大学編である。

 

〇梶島二郎 (1887~1974)

 数学者。東京工業大学教授から鹿児島県立工業専門学校を創設し、初代校長となった。この学校は1949年学制改革で県立鹿児島大学、1955年に国立鹿児島大学に併合された。

<梶島二郎像>

場所:鹿児島大学工学部(鹿児島県鹿児島市郡元1-21-24)

竣工: 1969年11月

像高:

作者:柳田菖

撮影時:2020年3月22日  

説明:鹿児島大学の工学部門(鹿児島市電「工学部前」電停そば)から入り、稲盛会館前の広場の奥にいる。像の奥は「海洋波動実験棟」がある。

 

〇岩崎與八郎  前出につき略

<岩崎與八郎像>

場所:鹿児島大学工学部(鹿児島県鹿児島市郡元1-21-24)

竣工:1988年3月

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:岩崎グループの創設者だが、鹿児島に工学系の教育機関を作るべく、100万円余の寄付をした(1944年)ことから、鹿児島県立工業専門学校が作られた。像があるのは工学部門からの「稲盛通り」と西門から入る通りの交差点付近である。

 

稲盛和夫 (1932~)

 実業家。京セラ、KDDI(もと第二電電)創業者。鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島県立大学工学部(現鹿児島大学工学部)を卒業、1959年に京都セラミック(現京セラ)を設立した。企業家の育成にも熱心である。

稲盛和夫像>

場所:鹿児島大学工学部(鹿児島県鹿児島市郡元1-21-24)

竣工:2017年3月

像高:

作者:池川直

撮影時:2020年3月22日  

説明:立像である。母校である鹿児島大学工学部に対し、奨学基金や「稲盛会館」「稲盛アカデミー棟」の寄贈など、多大な貢献をしたことから、この銅像が立った。

 

玉利喜造 (1856~1931)

 農学者、貴族院議員。薩摩(現鹿児島県)出身。駒場農学校(現東大農学部)1期生を首席で卒業し、アメリカへ留学、帰国後母校で教鞭をとる。ワタや大麦などで、わが国最初の人工交配をおこなうなど活躍した。晩年は故郷の鹿児島高等専門農林学校の校長となり、貴族院の勅撰議員ともなった。

玉利喜造像>

場所:鹿児島大学獣医学部(鹿児島県鹿児島市郡元1-21-24)

竣工:1925年11月

像高:

作者: 朝倉文夫

撮影時:2020年3月22日  

説明:鹿児島大学獣医学部の共通棟の前にある。

 

 

〇蟹江松雄 (1912~2001)

 農学者。鹿児島高等農林専門学校に農産製造学・発酵学の教授として赴任、「悪臭を除き、世界に通用する焼酎」を生涯の研究テーマとした。その後鹿児島大学学長などを務めた。

<蟹江松雄像>

場所:鹿児島大学農学部焼酎学習センター「北辰蔵」(鹿児島県鹿児島市郡元1-21-24)

竣工:2007年11月

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日  

説明:鹿児島の焼酎文化を開花させた人物らしい。

鹿児島県編  その16

今日は、2010年に鹿児島市が「偉人たちをより身近に感じ、新しい視点で楽しめる“まち歩きガイド”」として設置した、「時標(ときしるべ)」である。全部で7か所に設置されていて、人と場所、出来事を結び付けて紹介しているところがミソ。また銅像群の脇に立つ解説板内には、QRコードが用意されていて、スマホをかざすと、そのシーンの人物や物語についてのイラストムービーが流れる仕組みになっている(当初は「覗きメガネ」方式だったようだ。私の画像にもQRコードはついていないので、この2年間で設置されたようだ)。こうした取り組みは、新しい銅像の在り方かもしれない。少し特別なので、人物よりも事件に焦点を絞って書いて見ます。では、その7か所をご紹介!                                   

 

  

 

〇「イギリス艦、鹿児島湾に現る」(1863)

 前年に起こった生麦事件を受けて、イギリスが賠償を求めるために鹿児島湾に現れたが、その知らせを受けた大山巌西郷従道山本権兵衛が港へ向かった状況を表している。

<「イギリス艦、鹿児島湾に現る」像>

場所:加治屋町交差点(鹿児島県鹿児島市西千石町10-1)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日  

説明:このとき、大山巌は21歳(1842~1916:陸軍軍人)、西郷従道は20歳(1843~1902:陸、海軍軍人。西郷隆盛の弟)、山本権兵衛は9歳(1852~1933:海軍軍人。総理大臣)。画面左から大山巌西郷従道山本権兵衛である。

 

〇「樺山、黒田、大いに語る」(1858)

 1858年は日米修好通商条約調印、それに先立って徳川将軍家の継嗣問題で幕政が揺れていた時期。樺山資紀黒田清隆ら、薩摩藩の若者も日本の将来について語り合う様子を表している。

<「樺山、黒田、大いに語る」像>

場所:高見馬場交差点(鹿児島県鹿児島市西千石町17-3)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:このとき、樺山資紀は21歳(1837~1922:海軍軍人)、黒田清隆は18歳(1840~1900:陸軍軍人、総理大臣)。明治政府でも活躍した二人であった。左が樺山、右は黒田である。

 

 

〇「黒田清輝桜島の噴火を描く」(1914)

 この年、たまたま鹿児島に滞在していた黒田清輝(このとき47歳。1866~1924)は、桜島の大噴火に遭遇(大正大噴火。1月12日に発生し、9月ごろまで続いた。この噴火で桜島大隅半島と陸続きになった。また夕方遅くにM7程度の「桜島地震」が起こった)。その様子を主題に絵を描いた。作品は、鹿児島市美術館に収蔵されている。

<「黒田清輝桜島の噴火を描く」像>

場所:商工会議所ビル前(鹿児島県鹿児島市東千石町1-38)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:他の作品に比べると、断然と新しい時期の像。「時標」が「維新期」にこだわっているわけではないのでありうるわけだが、「桜島の大正噴火」と「黒田清輝」を入れ込みたいと思ったのだろう。左が黒田、右が弟子。ちなみに弟子は、山下兼秀(1882~1939。このとき33歳)。鹿児島市生まれで、黒田の弟子だったが、この頃は黒田の元を離れ、地元百貨店の山形屋の宣伝課長だった。噴火後の桜島を観察し、多くの作品を残している。

(山下兼秀「桜島爆発図」鹿児島市美術館蔵。Wikipediaより転載)

 

〇「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」(1866)

 土佐出身の坂本龍馬が、伏見寺田屋での襲撃事件で手を負傷した後、その療養もかねて、この事件で龍馬を救ってくれたお龍と、薩摩で「新婚旅行」をしたことは有名。このサイトでも、すでに「塩浸温泉」の2人の像を紹介している。2人に薩摩での療養を勧めた小松帯刀の別邸(鹿児島市原良4丁目)に滞在していた。

<「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」像>

場所:いづろ交差点(鹿児島県鹿児島市大黒町1-3)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:薩摩出身ではないが、「薩長同盟」や「大政奉還」に関わった坂本龍馬は外せないのだろう(最近、そんなに活躍していなかったとの説があるが…。司馬遼太郎の力で有名になったよう)。でもなんで「いづろ」なんだろう?

 

〇「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」(1779)

 島津重豪は第8代薩摩藩主(このとき34歳。1745~1833)。1758年に藩主となるが、実権を握るのは1763年。藩政改革に取り組み、藩校造士館の設立などをする一方、蘭学へも多大なる興味を持ち、1773年に明時館(のちの天文館)や医学院などを設立した。曾孫の島津斉彬はこの才能を引き継いだと言えよう。

<「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」像>

場所:天文館アーケード内<天文館跡地>(鹿児島県鹿児島市東千石町15-4)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:ちなみに脇に坐るのは、家臣の水間良実(みずまよしざね:?~1795)。暦学を学び、身分は低いが、「初代御暦者」に任命された。

 

〇「伊地知、吉井、政変について語る」(1860)

 1860年桜田門外の変が起き、幕政が揺らいだ時期。二人は伊地知正治(いじちまさはる。このとき32歳。戊辰戦争で活躍し、維新後は参議:1828~1886)と吉井友実(よしいともざね。このとき32歳。維新後は官僚。1828~1891)。この頃の薩摩藩は、島津斉彬の急死を受けて混乱が生じていたが、島津久光がリーダーシップをとって、幕政に介入し始めたころだ。

<「伊地知、吉井、政変について語る」像>

場所:中央公園(鹿児島県鹿児島市山下町4)

竣工:2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:中央公園は、照国神社島津斉彬を祭神として1864年に竣工)の前にあり、もう少し北に上がると鶴丸城址もある、薩摩藩城下町、鹿児島の中心部。

 

〇「ウィルス、高木に西洋医学を説く」(1869)

 7つ目のモニュメントは、ウィリアム・ウィルス(このとき32歳。1837~1894)が、鹿児島に招かれ、鹿児島医学校、鹿児島医学校病院(赤倉病院)を創設するとき。ウィルスは、駐日英公使館の医師として来日し、第2次東禅寺事件、、生麦事件などにも関わり、鳥羽・伏見の戦いの負傷者の治療や西郷従道の治療にあたる。徳川慶喜明治天皇にも謁見した。鹿児島に来訪後は、そのまま居ついて日本人女性と結婚している。高木兼寛(前出。海軍軍医。このとき20歳。1849~1920)は、ウィルスの門下生。

<「ウィルス、高木に西洋医学を説く」像>

場所:県民交流センター前(鹿児島県鹿児島市山下町14)

竣工: 2010年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:「城山入口交差点」のところで、背後には鶴丸城址に立つ「鹿児島県歴史・美術センター黎明館」がある。近くには「鹿児島医療センター」も建つ。高木兼寛を使うのは、日露戦争の時の「脚気」に対する陸・海軍の差を示したのだろうか?