銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

秋田県編 その3

〇齋藤武治  (生没年不詳)

横手駅前地区の地主か町長だろうか?駅前地区の市街地づくりに尽力し、5年の歳月を経て「正平寺たんぼ」と言われた駅前を市街地化したらしい。

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 <齋藤武治像>

場所:横手駅前(横手市寿町10)

竣工: 1988(昭和63)年10月

像高:

作者:

撮影時:2012年8月24日

説明:1927(昭和2)年に横手駅東側地区の整備に尽力をした人らしい。三角形の公園の細い路地に向かって鎮座されています。

 

 

〇林松之輔 (?~1929<昭和4>年)

 政治家。明治後期の旧増田町長。

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<林松之輔像>

場所:真人公園横手市増田町増田真人山下)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月24日

説明:真人公園の東側のフィールドアスレチックの下のあたりにいらっしゃる。公園内の下の道のあたりには、並木路子さんの「リンゴの唄の碑」「並木路子先生顕彰碑」がある。

 

〇長坂又兵衛 (1868<明治元>年~1941<昭和16>年)

 実業家。旧姓音吉。味噌醤油の長坂商店の創業者。醤油づくりのため自家発電を始め、増田で水力発電を作るきっかけも作った。養蚕にも尽力した。

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<長坂又兵衛像>

場所:真人公園横手市増田町増田真人山下)

竣工:

像高:

作者: 1954<昭和29>年10月

撮影時: 2012年8月24日

説明:胸像の右目の上に穴が開き、台座裏側の銘板の上部半分が割れて消失して、その事蹟を読み取ることが難しい。もう少し管理をした方がいいかもしれない。

 

〇打越光隆(うていちみちたか)  (1581<天正9>年~1609<慶長14>年)

 戦国時代の武将、幕臣。もとは最上義光の麾下、関ケ原の戦い後に幕臣。元は「うていち」と呼んだが、のちに「うちこし」と改めた。 

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<打越光隆像>

場所:龍源寺(秋田県由利本荘市矢島町城内田屋の下26)

竣工:1988< 昭和63>年4月

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月24日

説明:正確には3体の群像であるが、中心は打越光隆。右後ろが2代目で早世した打越光久、左後ろが龍源寺の開山である、即殿焚廣。矢島町はけっこう山深く、鄙びた鉄道である、由利高原鉄道鳥海山ろく線(旧JR矢島線)の終着矢島駅の近くに龍源寺はある。

 

〇尾留川安彦(びるかわやすひこ) (1868<明治元>年~1944<昭和19>年)

政治家、地方功労者。大学卒業後教員となるが、その後東滝沢町長、秋田県会議員となるが、それぞれ1期で辞任し、その後は旧東滝沢村の村政に関与した。由利郡の農政をサポートし、農協の前身である「産業組合」を組織し、運営に当たった。

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<尾留川安彦像>

場所:日枝神社秋田県由利本荘市前郷字前郷95)

竣工: 1937<昭和12>年7月

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月24日

説明:立派な立像である。竣工の年を見ると古希の祝いの寿像であったことがわかる。

 

〇北能喜市郎  (1866<慶応2>年~1964<昭和39>年

 政治家、地方功労者。非常に優秀で若くして金浦村の村長となった。金浦港の改修など漁業関係の貢献度が高かった。のち秋田県議会議員。

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<北能喜市郎像>

場所:金浦港(秋田県にかほ市金浦港)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月24日

説明:写真を見るとなぜか胸像と台座のあいだで綱がかかっている。なぎ倒そうとしたのだろうか?

銅像あるある その14

銅像の写真が撮れない(3)

 古くからある銅像に多いのだが、台座からしてとても大きくて立派なものがある。おそらく御影石などお高いものを使ったのだろう。まあ、こちらはそこまで評価することは少ないので(そのうち検証しようと思うが…)あまり関係ないのだが、問題はその高さである。2メートル以上の台座で、その上に全身像の銅像が載っているのだから、銅像の顔辺りは3メートル以上になる。写真を撮っている身からするととっても撮りにくい。仏像のように拝む人の方に視線が向いてくれればいいが、ほとんどは下の方を見てくれていない銅像は、眼も合わず、写真のお顔も小さくなりがち。もともと銅像はその人物の顕彰像なので、立派に造るんだけど、あまりにも台座が高くてその顔が拝めないのはどうかな?と思う。

あとは(文句ばかりだけど…)、近づけない丘の上に銅像を立てるのもどうかと思う。付近からすぐに見つけられるけど、結果として高い台座と同じものになっちゃうから…。

下の写真の左は会津の「天鏡閣」の有栖川宮威仁親王。右は上越市の「金谷山スキー場」のレルヒ少佐。下の段は、上越市の「春日山城址」の上杉謙信

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秋田県編 その2

  1. 伊藤直純   1861<万延元>年~1933<昭和8>年

 政治家。号は耕餘。仙北郡金沢中野村(現横手市)生まれ。秋田県会議員、金沢村長、衆議院議員を歴任.。産業組合法の成立や奥羽本線の開通、後三年駅の名付け親。後三年合戦(1083~87)に関する史跡保存をしたり、旧制横手中学校(現横手高校)の開校に尽力したりしてするなど、農村復興・地域振興など秋田県の近代化を進めた。

 

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<伊藤直純像>

場所:金沢公園(横手市金沢中野)

竣工: 1930<昭和5>年

像高:

作者: 朝倉文夫

撮影時: 2012年8月24日

説明:金沢公園は、後三年合戦(後三年の役とも)の際、清原氏の金沢柵があったところと言われている。近くには後三年合戦金沢資料館(横手市中野根小屋102-4)もある。像は寿像で、そのあたりからも氏は地域の人々に愛されたことがわかる。

 

 

  1. 藤原(清原)清衡   1056<天喜4>年~1128<大治3>年

 平安時代後期の武将。奥州藤原氏の祖。陸奥国亘理郡(現福島県)生まれ。父は藤原経清。父は前九年合戦(1051~62)で殺され、母はこの時の敵将清原武則の子、武貞と再婚した。清衡7歳だったという。その後、清原氏内で内紛が起き、異母兄の真衡、異父弟の家衡と対立して後三年合戦が起こった。最終的に清衡は源義家と手を組んで勝ち残り、奥六郡(陸奥国中部。現在の岩手県中南部)を領することに成功した。

 

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  1. 源義家      1039<長暦3>年~1106<嘉承元>年

 平安時代後期の武将。源頼義の長男。「八幡太郎」の通称で知られる。前九年合戦、後三年合戦で活躍した。「後三年合戦絵詞」では、「雁行の乱れ」で待ち伏せた清原軍を見破り、勝つことができたという話が載っている。後年、後三年合戦が朝廷から私戦とされたため、自腹で関東の武士団に褒美を渡したのがのちの源氏発展のきっかけになったとされるが、これは鎌倉幕府源頼朝)、室町幕府足利尊氏)の祖となったことからの伝承と思われる。

 

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  1. 清原家衡   生年不詳~1087<寛治元>年

 平安時代後期の武将。奥州出羽清原氏の一族。清原真衡の異母弟、清原清衡の異父弟。後三年合戦で金沢柵に立て籠もったが、兵糧攻めで攻め落とされ、斬首された。

 

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  1. 清原武衡  生年不詳~1087<寛治元>年

 平安時代後期の武将。奥州出羽清原氏の一族。清衡家衡の父武貞の弟。後三年合戦で金沢柵に立て籠もったが、兵糧攻めで攻め落とされ、斬首された。

 

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〇平安の風わたる公園

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場所:平安の風わたる公園(横手市金沢中野三貫堰)

竣工: 1991<平成3>年

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月24日

説明:「後三年合戦絵詞」に載る、「雁行の乱れ」のあったとされる西沼の畔のあり、「雁金橋」「後三年合戦絵詞」の壁画レリーフなどで、後三年合戦の歴史を学ぶことができる公園の中にある。清原清衡源義家清原真衡清原武衡の4体の銅像が、向かい合うように鎮座している。

 よく見ると、清原家衡像の矢の先に、赤とんぼが止まってます…。

 

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