銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

鹿児島県編  その12

 今回は、鹿児島在住の彫刻家、中村晋也氏の特集である。

〇中村晋也(1926~)

三重県亀山市生まれ。東京高等師範学校(現筑波大学)卒業後、鹿児島師範学校鹿児島大学教員(のち鹿児島大学教授)となり、鹿児島に住む。太平洋戦争の慰霊碑(沖縄県摩文仁の丘の鹿児島県出身戦没者慰霊碑・鹿児島県徳之島の戦艦大和慰霊碑など)を作る。1979年に「大久保利通像」(甲突川畔)、1982年に「若き薩摩の群像」(鹿児島中央駅前)、1984年に「種子島時堯像」(西之表市)、1988年に「島津義弘像」(伊集院駅前)、その後全国へと銅像を立てるようになる(1992年「菊池武光像」(熊本県菊池市)・1996年「石川啄木像」(岩手県盛岡市)・2004年「藤堂高虎像」(愛媛県今治市)・「五代友厚像」(大阪市)・2009年「太宰治像」(青森県五所川原市)・2012年「片倉景綱像」(宮城県白石市)・2016年「岩瀬忠震像」(愛知県新城市)など)。1997年に鹿児島市内に「中村晋也美術館」を建てる。

 

 2022322日に中村晋也美術館(鹿児島市石谷2366)を訪れた。車だと鹿児島ICから県道24号線(鹿児島東市来線)を西へ向かい、仁田尾北交差点(ファミリーマートが目印)を右折、バス停仁田尾団地を左折するとすぐである(南九州道松元ICから南に5㌔。バスだと、南国交通18松元・伊集院線 仁田尾団地下車すぐ)。住宅街の中に美術館はある。中村氏のアトリエの隣である。1000点を超える作品や原像が所狭しと展示されている。道路の反対側には2号館がある。

では、撮ってきた作品をどうぞ!

 

  <7代目中村芝翫(1995)>         <4世茂山千作(2002)>

 

    <椋鳩十(1996)>            <森鷗外(1982)>

※長野県下伊那郡喬木村墓所のもの    ※福岡県北九州市小倉の鷗外旧居のもの

 

   <太宰治(2009)>           <種子島時堯(1984)>

 ※青森県五所川原市芦野公園のもの    ※鹿児島県西之表鉄炮館前のもの

 

   <大久保利通(1979)>

 ※鹿児島県鹿児島市の甲突川高見橋側のもの   顔の像も…

 

    <豊臣秀吉(2007)>         <豊臣秀頼(2011)>

 ※大阪市大坂城豊国神社前のもの    ※大阪市玉造稲荷神社のもの

 

    <藤堂高虎(2004)>          <片倉景綱(2012)>

  ※愛媛県今治市の吹上公園のもの      ※宮城県白石市傑山寺のもの

 

    <高田好胤(2001)>          <長沢鼎(1985)>

 ※東京都品川区 薬師寺東京別院のもの   ※カリフォルニア州サンタローザの市
                       議会ホールのもの

 

   <天璋院篤姫(2010)>         <町田久成(2016)>

 ※鹿児島市鶴丸城址黎明館前のもの     ※東京都台東区東京国立博物館平成館 

                       前のもの

 

   <稲盛和夫(1998)>         <宮内杉右衛門(1984)>

  ※京都市京セラ本社内のもの       ※日置市とあるが所在不明

◎ここから下は鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」(1982)より

 ※本来17名いますが、12名しか撮ってないですね…💦

 

 <新納久脩・(左後ろに町田清蔵)>   <名越時成・町田久成・村橋久成>

 

 <寺島宗則五代友厚・鮫島尚伸>   <町田申四郎・森有礼松村淳蔵

 

 <おそらく菊池武光>細かく見ると現場の像と左右とも違う。違いを見つけて下さい

 

<現場の菊池武光像(熊本県菊池市

 

      <島津義弘> 右像は「戦国の武将」の題だがほぼ同じですよね…

      ※左は鹿児島県日置市伊集院駅前のもの

 

     <菊池武光(1982)>         <北野次登(2005)>

                      ※長野県上田市上田女子短期大学

                       もの

 

こう見ると、中村氏の作品は、九州が多いようです。また黒谷美術㈱が制作をしているものが多いようですね。また現場の像と違うものがあるのは、何回も作っては修正しているのでしょうか?

 

鹿児島県編  その11

〇塗木春志 (1922~1993?)

 農政家。知覧町農業協同組合長から鹿児島県の農業協同組合中央会長。知覧町議会議員(2期)、町消防団団長などを歴任。鹿児島県川辺郡知覧町(現南九州市)生まれ。

<塗木春志像>

場所:JA南さつま本所(鹿児島県南九州市知覧町郡17285)

竣工:1993年6月

像高:

作者:喜多敏勝

撮影時:2020年3月22日

説明:碑文を読むと没年が書かれていないが、文の最後に「ご遺徳をしのぶ」(知覧町長)と書かれているので、像の立てられた「1993年」を没年?としておいた。多くの像の碑文と没年の関係を見ると、その前年までに亡くなっていることが多いので、1992年頃なのではないか?「1990」年に県農協中央会長なので、近年まで元気であったのだろう。「剣道八段」でもあったようだ。

 

〇特攻勇士の像 (正式名称は「とこしえに」)

 アジア・太平洋戦争の末期に編成された、大日本帝国陸軍航空隊の特攻部隊。1945年3月から始まる特攻作戦(250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりする)という自決戦。この作戦の死者1036名中、439名が知覧基地から出撃していた(他に万世、鹿屋<鹿児島>、都城、新田原<宮崎>、健軍<熊本>、大刀洗<福岡>などから出撃)。

<特攻勇士の像>

場所:知覧特攻平和館(鹿児島県南九州市知覧町郡17881)

竣工:1974年

像高:

作者:伊藤五百亀

撮影時:2020年3月22日

説明:上記のように何か所からも出撃したが、この知覧が一番多く出撃し、一番多くの死者が出た。知覧基地の脇にあった、富家食堂のおかみ鳥濱トメは、特攻隊員から「お母さん」と慕われ、心の支えとなった。1955年に「知覧平和観音堂」が建てられ、慰霊が始まると、戦死者の遺品などが集まり、「知覧特攻遺品館」が作られた。これが「知覧特攻平和館」の基である。現在は、戦死した1036人の遺影が飾られ、遺書・手紙・辞世などが展示されている。また1980年に甑島で引き上げられたゼロ戦、海軍の水上特攻艇「震洋」の復元したものなども展示されている。

 

〇折田兼至(おりたかねたか) (1858~1923)

 明治から大正期の政治家、実業家。薩摩国給黎郡知覧郷(現南九州市)生まれ。鹿児島県議会議員、県会議長などを経て、衆議院議員(4期)。引退以後は鹿児島県農工銀行頭取となり、さらに南薩鉄道、鹿児島紡績会社の重役を歴任した。

<折田兼至像>

場所:知覧役場前交差点(鹿児島県南九州市知覧町郡6204)

竣工:1963年11月

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:1929年に知覧村により、安藤照制作の全身像が立てられたが、1943年に金属供出で壊された。その後台座だけが残っていたが、1963年に知覧町役場の改築に併せて、胸像を再建した。銅像のある所は、1882年に折田の呼びかけで作られた「新聞縦覧所」(雑誌や新聞を置いて、みんなが自由に閲覧できる施設)を作ったところだという。

 

〇宮原直二  (1858~1938)

 林業家。政治家。知覧村村長。薩摩国給黎郡知覧村(現南九州市)生まれ。タバコや知覧茶の振興、植林など。一方で薩南工業高校の前身(村立工業徒弟学校)の創設や薩南中央鉄道の建設などをおこなった。

<宮原直二像>

場所:南九州市役所(鹿児島県南九州市知覧町郡6204)

竣工:1963年 6月

像高:

作者:永吉?

撮影時:2020年3月22日

説明:薩南工業高校のfacebookによると、学校の正門横にも宮原直二の胸像がある(1969年制作、作者は板橋一歩)。

(薩南工業facebookより。

https://www.facebook.com/SATUNANKOUGYOU/posts/2168070323282008/

〇杉木盛次 (?~?)

 実業家。鹿児島荷役海陸運輸㈱を創設(当時は鹿児島荷役㈱)。

<杉木盛次像>

場所:鹿児島荷役海陸運輸㈱本社(鹿児島県鹿児島市七ツ島1-79)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:産業道路沿いに会社があり、その建物の前に立つ。撮影時は雨だったため額が光っている。

鹿児島県編  その10

〇永吉實雄 (?~?)

実業家。永吉建設㈱の創業者。

<永吉實雄像>

場所:永吉建設(鹿児島県指宿市開聞十町4577)

竣工:1975年

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日

説明:永吉建設は、国道226号線沿いにある、建設、造園などをする会社である。胸像は通りに面しており、すぐにわかる。

 

〇井上廣則 (1910~2000)

役人。揖宿郡開聞町仙田(現指宿市)生まれ。戦前は愛知航空機に勤めるが、戦後帰郷し、頴娃村役場に勤務、1952年から開聞町助役、1968年開聞町長。助役時代に「回転式流しそうめん器」を考案し実用新案権を得、町長時代に特許権を町に交付。現在、そうめん流しは開聞町の観光の目玉の一つとなっている。

<井上廣則像>

場所:唐船峡入り口(鹿児島県指宿市開聞町十町5967)

竣工: 2000年1月

像高:

作者:立体写真像(舘岡公彦)

撮影時:2020年3月22日  

説明:銅像のできた当時はまだご存命のようで、「寿像」となっている。唐船峡は、海近くまで切れ込んだ溪谷で、周りよりも40mほど低く陥没している。そこから湧水の湧き出る地である。湧水は池田湖からの伏流水という。流しそうめんは、これを観光資源にしようというところから生まれたもの。ちなみにそうめん流し器を開発したのは、鹿児島市の「鶴丸機工商会」である。

 

〇イッシー  

 鹿児島県指宿市にある池田湖に棲むと言われる巨大水棲生物のUMA。イギリスのネッシーに因む命名。1961年頃から目撃され始め、1978年に多くの人に目撃されてから有名になる。目撃情報では「黒いこぶのようなものが移動していた」とされるものが多い。池田湖にはオオウナギ(体長2m級)が生息するとされ、この巨大ウナギ説が有力。

<イッシー像>

場所:池田湖パラダイス(鹿児島県指宿市中浜5268)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日  

説明:池田湖パラダイスは、池田湖の北岸にある。おそらくイッシー像はコンクリート製。ブログ作成のためネットサーフィンをしていると、近隣には、ほかにもイッシー像がある(池田湖みやげ品センター前とかエプロンハウス池田とか)。

 

西郷隆盛

 略

西郷隆盛像>

場所:鰻温泉(鹿児島県指宿市山川成川)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2020年3月22日  

説明:1874年、明治6年の政変で下野した西郷隆盛が突然鰻温泉にやって来たそうです。従者2人と猟犬13頭を連れていたといいます。連日狩猟をし、温泉で入浴していたとのことです。その時佐賀から江藤新平が西郷を訪ねたそうですが、おそらく「佐賀の乱」に合わせて、鹿児島での決起を促す依頼だったのでしょう。この西郷像はおそらく石像で、このとき西郷が逗留して場所(区営鰻温泉の近く)です。

 なお、指宿温泉の指宿白水館内にも西郷像はあるが、今回は撮っていない。

 

〇岩崎與八郎(いわさきよはちろう) (1902~1993)

 実業家。鹿児島の岩崎グループの創始者。鹿児島県囎唹郡岩川村(現鹿児島県曽於市)生まれ。岩崎商店を起こすと、線路の枕木の納入から利益を上げ、日本一の枕木納入業者となり、戦前は大陸(満鉄や朝鮮など)に販路を広げていった。戦後は、運輸・観光業へとシフトし、鹿児島交通(南薩鉄道と三州自動車を合わせて)の経営、屋久島へのフェリー、指宿温泉の開発などで成功した。鹿児島商工会議所会頭にもなり、鹿児島観光の国際化を図った。

<岩崎與八郎像>

場所:岩崎美術館・工芸館(鹿児島県指宿市十二町3755)

竣工:1990年5月

像高:

作者:中村晋也

撮影時:2020年3月22日  

説明:幼いころに地元に学校がなかったため、自分が進学できなかったことから、学校を作ったり(県立岩川高校)や寄付をしたり(鹿児島大学工学部、医学部)している。鹿児島市内にも銅像(県商工会議所・鹿児島大学工学部)がある。

この像は寿像である。像のある岩崎美術館・工芸館は指宿いわさきホテル(旧指宿観光ホテル)の敷地内にある。

 

〇濱崎太平次 (1814~1863)

 江戸時代の商人。薩摩国揖宿郡指宿生まれ。鹿児島(薩摩)藩の財政を支え、紀州の文左衛門、加賀の銭屋五兵衛と合わせて、「江戸時代の実業家三傑」とされる。もともと「ヤマキ」の屋号を掲げ、海運業をしていたが、8代目の彼の代で、家業が衰退していた。そこで琉球との貿易に活路を見出し、藩の調所広郷と組んで、奄美の黒砂糖の輸送で儲けを挙げ、琉球との密貿易も許されたようだ。晩年は那覇、長崎、大坂、北海道にも支店があり、鹿児島藩へも多額の献金をしていた。

<濱崎太平次像>

場所:太平次公園(鹿児島県指宿市湊4-12-27)

竣工:1997年7月

像高:3m

作者:木佐貫

撮影時:2020年3月22日

説明:太平次公園は指宿港にある。公園の最先端の部分に船の帆の上に立つような姿である。幕末期の人物だが、写真が大嫌いだったようで、その写真は一枚もなく、像を作るにあたっては、太平次に近い人物からの聞き取りが基だったようだ。

 

篤姫(於一) (1836~1883)

 江戸後期から明治初期の女性。薩摩国鹿児島城下上竜尾町(現鹿児島市)生まれ。薩摩の島津一族の今和泉領主、島津忠剛を父とする。幼名は市(当初於一)、島津斉彬の養女となり(篤となる)、五摂家近衛家の娘として(近衛敬子となる)、徳川13代将軍徳川家定に嫁いだ(家定の死後、天璋院と名乗る)。

篤姫(於一)像>

場所:今和泉島津家別邸址(鹿児島県指宿市岩本2739)

竣工:2012年 9月

像高:

作者:田原迫華

撮影時:2020年3月22日  

説明:像は、子供時代に過ごした「今和泉家指宿別邸址」の浜辺である。この地は現在、今和泉小学校と指宿商業高校になっている。海岸線には当時の石垣や松林の一部(隼人松原)があり、小学校内には井戸が残っているらしい。

なお、篤姫像は鶴丸城址の「鹿児島県歴史・美術センター黎明館前庭」にもある。