銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

滋賀県編  その4

最澄  略

最澄像>

場所:延暦寺根本中堂前(滋賀県大津市坂本本町4220)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年10月9日

説明:根本中堂の前、坂を下りて右側にある。この脇から階段を上がると「文珠楼」である。石像である。基壇には「南無根本傳教大師」と彫られている。

 

最澄(童形像) 略

最澄像>

場所:延暦寺根本中堂前(滋賀県大津市坂本本町4220)

竣工:1937年

像高:

作者:

撮影時:2022年10月9日

説明:座像の石像の左側に立つ。この像は、比叡山開創1150年記念に、全国の小学校児童の1銭醵出金によって作られたという。それは最澄の遺訓に「我生まれてこのかた、口に麤言(荒々しいことば)なく、手に笞罰(笞で打つこと)せず、今我同法(道を同じくするもの)童子を打たずんば、我が大恩となさん。努力せよ、努力せよ」とあり、これが児童に対する心として、像の建設につながったらしい。この像の左には、『山家学生式』の冒頭分が掲げられている。

 

〇智顗(ちぎ:天台大師) (538~598)

 中国南北朝時代から隋にかけての僧侶。天台宗の開祖であるが、一説には慧文、慧思に続く第三祖とする説もある。中国、日本の大乗仏教に大きな影響を与えた。

<天台大師像>

場所:文殊楼奥(滋賀県大津市坂本本町4220)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年10月9日

説明:根本中堂から階段を上がった文殊楼に向かって、左側の小丘の上に立つ石像である。周りには石塔などが並ぶ。

 

中江藤樹 (1608~1648)

 江戸時代の陽明学者。近江国高島郡小川村(現滋賀県高島市安曇川)生まれ。本名中江惟命(これなが)。通称は与右衛門。農家の生まれだが、武士である祖父の養子となり、加藤貞泰に仕える。貞泰が伊予大洲藩に国替えになると、移住するが、1634年に母への孝行と健康上の理由(藤樹は喘息持ちだった)から藩に辞職を願うが、拒絶され、脱藩し故郷に戻る。故郷で私塾藤樹書院を開く。当初は朱子学に傾倒したが、やがて陽明学の影響を受け、「格物致知論」を究明する。後世において「近江聖人」と崇められた。

中江藤樹像>

場所:良知館(滋賀県高島市安曇川町上小川225-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年10月9日

説明:良知館は、藤樹書院後の脇に立つ施設で、見学者のための休憩所である。数台分の駐車場も完備する。この施設の北側が藤樹書院の跡である。石で作ったオブジェの中に小さな中江藤樹がいる。2022年は、雨のせいと琵琶湖の湖西の道路が混雑していて、高島市近郊の諸銅像を周れないと判断し、ここ「良知館」と「道の駅あどがわ」以外は断念した。

 断念した像中江藤樹像(安曇川駅東口・安曇小学校および青柳小学校<幼少  

       期>)

      ②王陽明(陽明園)

      ③安原仁兵衛(安曇川駅西口)

      ④藤本太郎兵衛(道の駅新旭風車村)

      ⑤清水安三高島市役所)

      ⑥前田健造(朽木ゴルフ倶楽部)

 

中江藤樹  略

中江藤樹像>

場所:道の駅藤樹の里あどがわ(滋賀県高島市安曇川町青柳1162-1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2022年10月9日

説明:この像は、少年だった藤樹が、母の手にできた「あかぎれ」を心配して、よく効く塗り薬を持って、一人遠い伊予国大洲(愛媛県)から家に帰ってきたときの場面である。道の駅では、「藤樹先生孝養像」となっている。

 

ガリヴァ― 

 18世紀のアイルランドの作家、ジョナサン・スウィフトによる小説、『ガリヴァー旅行記』の主人公。

ガリヴァー像>

場所:JR近江高島駅滋賀県高島市勝野2245-5)

竣工:1992年

像高:7.5m

作者:

撮影時:2022年10月9日

説明:JR近江高島駅の駅前広場(高島駅ガリバーメルヘン広場)に立つ巨大な像。ここは比良山系の中に「カリバー青少年旅行村」があり、それにちなんで作られた。小説の一場面である、リリパット国(小人国)の一場面を表している。なお写真が撮れなかったが、湖西線近江高島駅の1番線下りホームにもガリヴァー像がある。

滋賀県編  その3

蓮如 (1415~1499)

 室町時代の浄土真(一向)宗の僧侶。第8代。諱は兼壽。京都東山の大谷本願寺生まれ。父が死んだ頃から浄土真宗は混乱が続き、1458年には延暦寺により弾圧を受ける。その後近江を転々とし、1471年には越前吉崎へ赴く。その後吉崎御坊ができ、寺内街を形成するに至る。1475年に京都山科へ移り、山科本願寺を作る。1496年に大坂石山に大坂御坊(のちの石山本願寺)ができる。生涯で5度の結婚をし、男子13人、女子14人をもうけた。蓮如の布教は、教義を手紙(御文)の形でやさしく説き、それを地域の講で伝えていくスタイルだった。

蓮如像>

場所:本福寺滋賀県大津市堅田1-22-30)

竣工: 1995年11月(製作は1993年)

像高:

作者:山崎正

撮影時:2022年10月9日

説明:本福寺は、1465年に寛正の法難で大谷本願寺が破壊された際に、蓮如を匿った。そのために1468年に延暦寺と対立し、「堅田大責(かたたおおぜめ)」として堅田の町と本福寺は焼き払われた。しかし、近江の浄土真宗の発展に尽くし、近江国一向一揆の忠臣を担った。

 

堅田の源兵衛と蓮如  (?~1480)

 「堅田大責」により、堅田の地を離れることになった蓮如は、親鸞御真影(木像らしい)を三井(園城)寺に預けた。その後党勢を取り戻し、山科に本願寺を作ることにした蓮如が、三井寺に返してもらいに行くと、「返してほしければ生首を二つ持ってこい」と難題を吹っ掛けられた。その話を聞いた堅田の漁師の源兵衛が、自分の首を差し出し、父親の源右衛門が息子の首を持って「せがれの首と自分の首で首二つだ!」と三井寺に詰め寄ると、驚いた三井寺御真影(木像)を返したという。

堅田の源兵衛と蓮如像>

場所:光徳寺(滋賀県大津市堅田1-22-22)

竣工:

像高:

作者:田畑功

撮影時:2022年10月9日

説明:一番前が源兵衛、首を刎ねているのが、父親の源右衛門。後ろで合掌しているのが、蓮如である。ちなみに、ここ光徳寺には源兵衛の首(髑髏)があるそうだが、等正寺(大津市三井寺町)、両願寺(大津市小関町)にも首はあるという。

 

〇清浦奎吾 (1850~1942)

 官僚、政治家。第23代の内閣総理大臣肥後国山鹿郡上御宇田村(現山鹿市)生まれ。旧制大久保。司法省を経て、内務省で警察官僚となる。その後貴族院議員となり、1896年の第2次松方内閣で司法大臣となると、その後司法大臣や農省務大臣、内務大臣を歴任、枢密顧問官となる。その後内閣総理大臣となるが第二次護憲運動に敗れ、5か月の短命内閣に終わった。

 清浦錬子  (1858~1944)

 教育者。紀州藩士の長女として生まれ、1873年に清浦奎吾と結婚した。1926年に荏原女学校の初代校長に、品川高等女学校(現品川女子学院中高)の校長を歴任した。

<清浦圭吾・清浦錬子像>

場所:成安造形大学滋賀県大津市仰木の里東4-3-1)

竣工:1940年

像高:

作者:酒見恒?

撮影時:2022年10月9日

説明:清浦の像があるのは、1925年の成安学園創立15周年記念式典に参列し、それ以降学園の発展に寄与し、1932年には財団法人京都成安女子学園の顧問になったことから。

 

〇瀬尾チカ  (1887~1956)

 教育者。1918年、京都に和洋裁縫手芸教習所、女子実業教習所を設立、2年後に成安裁縫学校とした。1923年に京都成安女子学院と改称し、幼稚園、中学校、高等学校、専門学校を設立、1950年には成安女子短期大学を開学した。1993年に成安造形大学と改称し、近江に移設、中、高校は京都産業大学に委譲した。

<瀬尾チカ像>

場所:成安造形大学滋賀県大津市仰木の里東4-3-1)

竣工:1959年10月

像高:

作者:松田尚之

撮影時:2022年10月9日

説明:もともと京都成安女子学園は相国寺の裏にあり、像の題字の揮毫は、当時の相国寺の管長(大津櫪堂=オオツレキドウ)が書いている。成安造形大学は、「キャンパスが美術館」をおこなっており、受付で断われば、普通に校内に入ることができる。

 

最澄  略

最澄像>

場所:西塔道場伝教大師像前広場(滋賀県大津市坂本本町)

竣工:1987年

像高: 12m

作者:

撮影時:2022年10月9日

説明:比叡山のうち、西塔エリアは、最澄の御廟所(浄土院)などがあるところで、釈迦堂(転法輪堂)が中心。そこより北へ少し行った「展望台」「比叡山峰道レストラン」のある駐車場の奥に立つ、大きな像である。1987年の比叡山開創1200年を記念して造立された。当日はこのあたりから雨が激しくなり、写真を慌てて撮ったため、データが少ない。

滋賀県編  その2

明智光秀 (1516?~1582)

 戦国から安土桃山時代の武将。美濃国可児郡明智生まれか?最初は斎藤道三、その後越前の朝倉義景に仕え、さらに足利義昭に、最後は織田信長に仕えた。1571年の比叡山焼き討ちに活躍し、近江坂本城主となる。その後も越前一乗谷丹波の攻略で活躍するも、1582年に突如主君の織田信長を京都本能寺に討った。しかし、直後の山崎の戦い羽柴秀吉らに敗れ、本拠の坂本城を目指すところを討たれたという。

明智光秀像>

場所:坂本城址公園(滋賀県大津市下阪本3-1)

竣工:1995年3月

像高:

作者:

撮影時:2022年10月9日

説明:石像である。坂本城址公園は地域のまちづくり推進協議会の手で守られているようで、訪れた日も雨交じりの中、おじいさんたちが熱心に解説をしていた。ぜひ亀岡のように銅像を立ててほしい思った。

 

最澄 (767~822)

 平安時代の僧侶。近江国滋賀郡古市郷もしくは坂本(いずれも現滋賀県大津市)生まれ。日本の天台宗の開祖で、伝教大師と呼ばれる。俗名は三津首広野。遣唐使の船で唐に渡り仏教を学ぶと、比叡山延暦寺を開いて日本の天台宗の開祖となった。

最澄像>

場所:JR比叡山坂本駅滋賀県大津市坂本7-32-22)

竣工:2000年 12月

像高:

作者:山田良定

撮影時:2022年10月9日

説明:「若き日の最澄」とのコピーがついている。19歳で比叡山に修行に入ったのだが、その19歳時のイメージで作られた。

 

最澄(幼少期)

 略

最澄(幼少期)像>

場所:生源寺(しょうげんじ)(滋賀県大津市坂本6-1-17)

竣工: 1979年9月

像高:

作者:小森寸龍

撮影時:2022年10月9日

説明:生源寺は最澄の父、三津首百枝の居館の跡で、延暦年間(782~806)に最澄が創建した寺。門を入って右側に、最澄産湯の井戸とこの像がある。寺は京阪電車坂本駅のすぐそばである。

 

〇叡南祖賢(えなみそけん) (1903~1971)

 現代の天台宗の僧侶。愛知県丹羽郡豊富村(現愛知県一宮市)生まれ。本名伊藤賢一。1910年に7歳で得度、1924年に登壇受戒。1944年に千日回峰を成し遂げる。1949年安楽律院の住職となり、その後叡南祖賢となる。1963年比叡山執行となる。

<叡南祖賢像>

場所:律院(滋賀県大津市坂本5-24-13)

竣工: 1988年5月

像高:

作者: 丸山幸一

撮影時:2022年10月9日

説明:律院は、松禅院があったところで、叡南祖賢が再興した寺。行った時もスピーカー越しに護摩供が聞こえていた。ちなみに現在の住職も叡南祖賢も大阿闍梨(伝法阿闍梨の中でも徳の高いもの)であり、京都の銘菓「阿闍梨餅」は、この大阿闍梨の千日回峰の阿闍梨の被る網代笠をイメージしたものだそうだ。

 

〇真盛上人 (1443~1495)

 戦国期の天台宗の僧侶。伊勢国一志郡仰木(現三重県津市一志町)生まれ。天台宗真盛派(現天台真盛宗)の祖。戒律と称名念仏の一致を唱え、無欲と慈悲を説いた。近江坂本の西教寺を再興し、本寺とした。

<真盛上人(幼年期の像で、宝珠丸)像>

場所:西教寺滋賀県大津市坂本5-13-1)

竣工:

像高:

作者:山崎正

撮影時:2022年10月9日

説明:作者は、晩年の真盛上人像から骨格を調べ、幼年期の姿を計算して作ったという。寺の宗祖大師殿の敷地内で、そちらを向いて立っている。