〇蓮如 (1415~1499)
室町時代の浄土真(一向)宗の僧侶。第8代。諱は兼壽。京都東山の大谷本願寺生まれ。父が死んだ頃から浄土真宗は混乱が続き、1458年には延暦寺により弾圧を受ける。その後近江を転々とし、1471年には越前吉崎へ赴く。その後吉崎御坊ができ、寺内街を形成するに至る。1475年に京都山科へ移り、山科本願寺を作る。1496年に大坂石山に大坂御坊(のちの石山本願寺)ができる。生涯で5度の結婚をし、男子13人、女子14人をもうけた。蓮如の布教は、教義を手紙(御文)の形でやさしく説き、それを地域の講で伝えていくスタイルだった。
<蓮如像>
竣工: 1995年11月(製作は1993年)
像高:
作者:山崎正義
撮影時:2022年10月9日
説明:本福寺は、1465年に寛正の法難で大谷本願寺が破壊された際に、蓮如を匿った。そのために1468年に延暦寺と対立し、「堅田大責(かたたおおぜめ)」として堅田の町と本福寺は焼き払われた。しかし、近江の浄土真宗の発展に尽くし、近江国一向一揆の忠臣を担った。
「堅田大責」により、堅田の地を離れることになった蓮如は、親鸞の御真影(木像らしい)を三井(園城)寺に預けた。その後党勢を取り戻し、山科に本願寺を作ることにした蓮如が、三井寺に返してもらいに行くと、「返してほしければ生首を二つ持ってこい」と難題を吹っ掛けられた。その話を聞いた堅田の漁師の源兵衛が、自分の首を差し出し、父親の源右衛門が息子の首を持って「せがれの首と自分の首で首二つだ!」と三井寺に詰め寄ると、驚いた三井寺は御真影(木像)を返したという。
竣工:
像高:
作者:田畑功
撮影時:2022年10月9日
説明:一番前が源兵衛、首を刎ねているのが、父親の源右衛門。後ろで合掌しているのが、蓮如である。ちなみに、ここ光徳寺には源兵衛の首(髑髏)があるそうだが、等正寺(大津市三井寺町)、両願寺(大津市小関町)にも首はあるという。
〇清浦奎吾 (1850~1942)
官僚、政治家。第23代の内閣総理大臣。肥後国山鹿郡上御宇田村(現山鹿市)生まれ。旧制大久保。司法省を経て、内務省で警察官僚となる。その後貴族院議員となり、1896年の第2次松方内閣で司法大臣となると、その後司法大臣や農省務大臣、内務大臣を歴任、枢密顧問官となる。その後内閣総理大臣となるが第二次護憲運動に敗れ、5か月の短命内閣に終わった。
清浦錬子 (1858~1944)
教育者。紀州藩士の長女として生まれ、1873年に清浦奎吾と結婚した。1926年に荏原女学校の初代校長に、品川高等女学校(現品川女子学院中高)の校長を歴任した。
<清浦圭吾・清浦錬子像>
竣工:1940年
像高:
作者:酒見恒?
撮影時:2022年10月9日
説明:清浦の像があるのは、1925年の成安学園創立15周年記念式典に参列し、それ以降学園の発展に寄与し、1932年には財団法人京都成安女子学園の顧問になったことから。
〇瀬尾チカ (1887~1956)
教育者。1918年、京都に和洋裁縫手芸教習所、女子実業教習所を設立、2年後に成安裁縫学校とした。1923年に京都成安女子学院と改称し、幼稚園、中学校、高等学校、専門学校を設立、1950年には成安女子短期大学を開学した。1993年に成安造形大学と改称し、近江に移設、中、高校は京都産業大学に委譲した。
<瀬尾チカ像>
竣工:1959年10月
像高:
作者:松田尚之
撮影時:2022年10月9日
説明:もともと京都成安女子学園は相国寺の裏にあり、像の題字の揮毫は、当時の相国寺の管長(大津櫪堂=オオツレキドウ)が書いている。成安造形大学は、「キャンパスが美術館」をおこなっており、受付で断われば、普通に校内に入ることができる。
〇最澄 略
<最澄像>
竣工:1987年
像高: 12m
作者:
撮影時:2022年10月9日
説明:比叡山のうち、西塔エリアは、最澄の御廟所(浄土院)などがあるところで、釈迦堂(転法輪堂)が中心。そこより北へ少し行った「展望台」「比叡山峰道レストラン」のある駐車場の奥に立つ、大きな像である。1987年の比叡山開創1200年を記念して造立された。当日はこのあたりから雨が激しくなり、写真を慌てて撮ったため、データが少ない。