〇乃木希典 (1849~1912)
陸軍軍人。江戸生まれだが、長州藩の支藩、長府藩士の家に生まれる。以下は省略
<乃木希典像>
竣工: 1922年鋳造のものは戦時中に金属供出され、戦後まもなく現在の像が再建された。その際に軍服姿から着物姿へと変えられた。
像高:
作者:
撮影時:2019年1月29日
説明:乃木は台湾総督を辞した後で、善通寺市にあった陸軍第11師団長となっている(1898~1901)。その際にここ、金倉寺を宿舎として滞在していた。その縁で像が立っている。像の銘は「護国院殿」。また同寺内には、乃木の軍帽や軍刀(那須乃木神社のもののレプリカ)なども陳列されている。
〇智証大師円珍 (814~891)
平安時代の僧侶(天台宗)。諡号は智証大師。天台宗寺門派の祖。讃岐国金倉郷(現香川県善通寺市)生まれ。空海の甥。853年に唐へと渡り858年帰国。帰国後は金倉寺に住み、その後比叡山延暦寺へ移り、868年に第5代座主となる。
<智証大師円珍像>
竣工: 1989年
像高:
作者:
撮影時:2019年1月29日
説明:同寺では「入山大師」の銘がうたれているが、これは修験装束で大峯・葛城・熊三山を巡礼し、那智の滝で1000日間の参篭をしたという伝承にもとづくもの。よくよくお顔を見ると、円珍の特徴であるおむすび型の顔の輪郭が見て取れる。
〇弘法大師と衛門三郎
徳島県編の焼山寺「杖杉庵」で紹介済み。赤い帽子をかぶったのが衛門三郎(背中に「衛門三郎」と書かれている)。
<弘法大師と衛門三郎像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2019年1月29日
説明:衛門三郎は「お遍路」の祖と言われるが、出身は伊予国(現愛媛県)。ゆかりの寺は石手寺(松山市)。衛門三郎が空海に死の直前にやっと会えたのが、上記の焼山寺(徳島県神山町)。ではどうして香川県の道隆寺にこの像があるかというと、衛門三郎の父がこの寺と縁があったかららしい。
〇宮脇朝男 (1912~1978)
農協運動家。香川県仲多度郡満濃町(現まんのう町)生まれ。戦前は無産運動や農民運動に従事し、戦後日本農民組合の常任中央委員となり、農協ができると全国農協中央会の会長となった。
<宮脇朝男像>
場所:JA香川県協栄支部(香川県仲多度郡まんのう町吉野下1141―1)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2019年1月29日
説明:これは出身地にある胸像だが、高松の県農協会館(高松市寿町1-3―6)にも像がある(滞在中は農協会館の新築工事でお邪魔できなかった。他に岡佳吉像がある(はず)。
〇日柳燕谷(くさやなぎえんこく) (1817~1868)
幕末の勤皇家。讃岐国仲多度郡榎井村(現琴平町)生まれ。詩人、侠客でもあった。長州の高杉晋作を匿ったことで有名。
<日柳燕谷像>
竣工: 1928年
像高:
作者: 小倉右一郎
撮影時:2019年1月29日
説明:施設名は呑象楼(どんぞうろう)。燕石の自宅。建物は当時のものが移築、改修されて現存し、中は資料館となっている。自分は入っていないが、中には志士を匿うためのさまざまな仕掛けがあるらしい(回転扉や抜け穴など)。館内にもう一人の地元の勤皇家、美馬君田の胸像もある(これを書いていて見つけた…。また行かねば)。像は、小倉が1928年の帝展に出品したもので、小倉の没後遺族から四国先賢顕彰会に寄贈されたもの。
〇琴陵宥常(ことおかひろつね) (1840~1892)
金刀比羅宮の宮司。僧名としては「宥常(ゆうじょう)」。還俗して上記の名前に改めた。江戸時代の神仏習合下で「金光院金毘羅大権現」と呼ばれた寺院名を「金刀比羅宮」という神社名に改めた。また1886年のノルマントン号事件に際し、海上安全を祈願し、「大日本帝国水難救助会」を創設した。
<琴陵宥常像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2014年12月5日
説明:像のある所は、一の坂を登って行き、大門手前の右手にあたる。金刀比羅宮にある「高橋由一館」には高橋の油絵が27点あるが、この宥常が買い集めたもの。高橋の書いた宥常の像もある(下記。金刀比羅宮蔵)。銅像の顔とよく似ている。
〇琴陵光煕(ことおかてるさと) (1875~1946)
金刀比羅宮の宮司。金刀比羅宮の整備にあたり、晩年は香川県護国神社の初代宮司を兼務した。
<琴陵光煕像>
場所:金刀比羅宮図書館(香川県仲多度郡琴平町榎井892-1)
竣工: 1967年
像高:
作者:
撮影時:2014年12月5日
説明:図書館は、金刀比羅宮の北側の神苑の奥にあり、一般の人も利用は可能だそうだ。光煕は、教育部門での貢献が高かったようなので、この地が選ばれたのではないか?