90,000アクセスありがとうございます。ヘベレケですが、何とかこれからも続けていきたいと思います💦
〇徳川家康 (1543~1616)
戦国期~江戸初期の戦国大名、江戸幕府初代征夷大将軍。三河国岡崎(現愛知県岡崎市)生まれ。国人土豪安祥松平氏の5代当主。幼名は竹千代。幼少期を織田氏や今川氏の人質として育ち、今川義元から元康の名を受けるが、桶狭間の戦いで義元が討ち死にすると、今川氏から独立し家康と改諱した。その後織田信長と同盟を結び、三河国から遠江・駿河へと領土を拡充していく。本能寺の変後は甲斐・信濃も手に入れた。1584年の小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と対峙その後臣従し、小田原攻めで後北条氏が滅ぶと、関東8カ国への転封を命じられた。秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いに勝利し、1603年征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。1605年に将軍職を徳川秀忠に譲ると、駿府に移って大御所となった。

<徳川家康像>
竣工:1973年11月
像高:3.5㍍(台座込みで6.5㍍)
作者:堤達男
撮影時:2021年3月28日
説明:晩年の鷹狩をする姿を写したもの。秀忠に将軍を譲った後、約10年間を駿府で過ごし、駿府の町割りや安倍川の治水工事に取りかかり、現在の静岡の市街地を作り上げた。なおJR静岡駅北口には、壮年期のもの(2009年3月。作:堤直美)、幼年期の「竹千代像」(2020年5月。作:堤直美)も作られている。

〇今川義元 (1519~1560)
戦国期の駿河・遠江国の守護大名、戦国大名。駿河国生まれ。今川氏第11代。武田信玄や北条氏康と婚姻関係を結び、「海道一の弓取り」の異名をもった。さらに三河国も飲み込み、尾張の一部まで領土を広げたが、織田信長に1560年桶狭間の戦いに敗れて討ち死にした。

<今川義元像>
竣工:2020年5月
像高:台座含めて約2㍍
作者:堤直美
撮影時:2021年3月28日
説明:静岡市や静岡商工会議所が、「桶狭間で敗れた公家かぶれの武将」のイメージを払拭しようと銅像が設置された。すぐ脇には松平竹千代(徳川家康の幼名)の像も立つ。なお、桶狭間の戦いの場所(愛知県名古屋市緑区桶狭間北3-1001)にも今川義元像がある。

〇山田長政 (1590?~1630)
江戸時代初期の商人、軍人。生まれは諸説あり、駿河国駿府馬場町との説が妥当か?江戸時代初めには沼津藩の駕籠かきをしていたが、1612年頃朱印船でシャム(現在のタイ)に渡り、1620年頃にはアユタヤ日本町の頭領になったとされる。さらにスペイン・ポルトガル艦隊とシャム軍の戦闘において、長政が日本軍を率いてシャム軍側で活躍し、シャム国王の信頼を勝ち取り、リゴールの太守となった。しかしシャム国内の内紛もあり、毒殺されてしまった。

<山田長政像>
竣工:2000年
像高:
作者:熊谷友児
撮影時:2021年3月28日
説明:像の立つ場所は山田長政の屋敷跡とされる。またタイのアユタヤのチャオプラヤ川沿いには立像がある。
〇原胤信(主水)(はらたねのぶ<もんど>) (1587~1623)
安土桃山期から江戸初期の旗本。下総国臼井城に生まれる(現千葉県佐倉市)。千葉氏の筆頭家老の家に生まれたが、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、後北条氏の人質として小田原城にいた。落城時父は行方知れずとなったが、名家の出身という事で、徳川家康の小姓となった。1600年キリスト教徒になった(洗礼名はジョアン)。1612年以降江戸幕府のキリスト教弾圧が強化されると出奔したが、1614年に捕らえられ拷問に処されたが、その後も布教活動をしたため1623年元和の大殉教の際に処刑された。

<原胤信(主水)像>
竣工:1987年11月
像高:
作者:小坂圭二
撮影時:2021年3月28日
説明:カトリック静岡教会は駿府城址の北東側にあり、幼稚園も経営しているので、平日の昼間は入りにくいかもしれない。
〇大谷嘉兵衛 (1845~1933)
商人、実業家、政治家。伊勢国飯高郡谷野村(現三重県松阪市)生まれ。19歳で横浜の茶商伊勢屋に奉公し、その後スミス・ベーカー商会に入った。明治になると独立して製茶の海外売り込みに成功し、茶業協同組合を設立して、茶の品質向上に努めた。1894年には日本製茶株式会社を設立、また横浜商業会議所(現在の横浜商工会議所)の会頭となった。1907年に貴族院議員となり、「茶聖」「茶業王」と呼ばれた。

<大谷嘉兵衛像>
竣工:1965年2月(元像は1917年)
像高:
作者:
撮影時:2007年5月26日
説明:元像の時は寿像であった。墓所のある三重県松阪市の長楽寺(三重県松阪市飯高町宮本515―1614)にも胸像がある。
