銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

静岡県編    その10

また謝りますが、先週は関西の「三国宝展」のハシゴをして不在でした…💦では今週は真面目に…

 

〇日比谷平左衛門 (1848~1921)

 実業家。越後国蒲原郡浦館村(現新潟県三条市)生まれ。江戸末期に江戸に出て綿糸棉花問屋に奉公、その後独立し、日比谷家に養子に入る。綿糸染糸店を開き、やがて紡績の将来性に注目し、東京富士紡績を興す。さらに日清紡績、鐘淵紡績の設立に関わり、「日本紡績界の巨人」と呼ばれるように。晩年には銀行も作った。

<日比谷平左衛門像>

場所:豊門公園(静岡県駿東郡小山町藤曲142-7)

竣工:2018年3月 (元の像は1907年5月に富士紡績小山工場の園地内に立てた)

像高:

作者:丸山幸一 (元の像は大熊氏廣)

撮影時:2024年12月27日

説明:この地に像があるのは、ここが6大紡績会社の一つ富士紡績の創設地であり、業績の悪化した富士紡績の救済に尽力したからである。像のある「豊門公園」は、もともと富士紡績の施設であった。2004年小山町が購入したが、「豊門」とは、次に紹介する和田豊治の「豊」と、森村市左衛門(TOTOなどの創設者)・日比谷平左衛門・濱口吉右衛門(元富士紡績社長、ヒゲタ醤油の濱口家出身)の3人共通の「門」から来ているそうだ。

 

和田豊治 (1861~1924)

 実業家、政治家。豊前国中津藩(現大分県中津市)生まれ。慶應義塾を卒業後、日本郵船三井銀行を経て、鐘淵紡績に入社し、同社の経営立て直しに成功、日清戦争後、富士紡績に入り初代社長となる。その後は貴族院議員となった。創立に関わった会社は数十社を超え、「財界世話人」と呼ばれた。

和田豊治像>

場所:豊門公園(静岡県駿東郡小山町藤曲142-7)

竣工:2018年3月

像高:

作者:丸山幸一(朝倉文夫の像を復元したものという)

撮影時:2024年12月27日

説明:豊治は、菅沼村と六合村の合併による新制小山町の誕生にも尽力し、公園内にある「豊門会館」は東京にあった和田家別邸である。当初は富士紡績の福利厚生施設だった。また公園内には「和田君遺悳碑」(1925年建設)もある。和田像は出身の大分県中津市の「村上医学史料館」(大分県中津市三ノ丁1290)にもある。

 

〇湯山正平 (1884~1969)

 医師。政治家。静岡県駿東郡小山町生まれ。小山町長(4期)。町議会議員。小山町の発展に寄与した。

<湯山正平像>

場所:豊門公園(静岡県駿東郡小山町藤曲142-7)

竣工:1972年8月

像高:

作者:

撮影時:2024年12月27日

説明:豊門公園を訪れた際に発見した。厳密には、豊門公園下の忠霊碑の左脇にいる。

 

伊奈半左衛門忠順(いなはんざえもんただのぶ) (?~1712)

 江戸時代中期の武士、旗本。関東郡代。伊奈家は代々関東郡代として活躍し、伊奈忠次、忠治(忠次嫡男)、忠治(同次男)と関東地方の治水・河川改修・新田開発に従事した。忠順は富士山の宝永の大噴火(1707)に際し、小田原藩の酒匂川の改修、足柄地区の被害者支援(酒匂川の改修工事に地域の農民を雇い入れる)や足柄地区の農地の土壌改良に取り組んだが、事業半ばで亡くなった。

伊奈半左衛門忠順像>

場所:伊奈神社静岡県駿東郡小山町須走71-1)

竣工:1982年3月

像高:

作者:堤達男

撮影時:2024年12月27日

説明:地域の人にとっては大恩人なので、神社の祭神となっている。この日は天気も良く富士山もよく見えた。

 

岡野喜太郎 (1864~1965)

 実業家。スルガ銀行創設者。駿河国駿東郡青野村(現静岡県沼津市)出身。1887年に静岡県に貯蓄組合共同社を設立し、これを発展させ駿河銀行を作った。また大昭和製紙(現日本製紙)の取締役にも就任する。

岡野喜太郎像>

場所:岡野公園(静岡県沼津市青野)

竣工:1950年

像高:

作者:

撮影時:2024年12月27日

説明:101歳まで長生きした氏の寿像であった。氏は93歳まで頭取を続け、像は米寿の時のものである。岡野公園は生家の近くで、岡野家が土地を寄贈して作られた。

 

〇岡野豪夫(ひでお) (1890~1964)

 実業家。駿河銀行の2代目頭取。

<岡野豪夫像>

場所:岡野公園(静岡県沼津市青野)

竣工:1964年

像高:

作者:

撮影時:2024年12月27日

説明:喜太郎の嫡男である氏は68歳で頭取になったが、父は健在であり、常に父をもり立て、調整役に徹したそうで、「喜太郎が太陽なら豪夫は月」とも言われたらしい。

 

〇鈴木和太郎 (1894~1982)

 農政家。実業家。野菜・果樹の栽培に熱心で、のちに鈴和観光を興した。

<鈴木和太郎像>

場所:沼津市桃里付近(静岡県沼津市桃里451-2)

竣工:1982年3月

像高:

作者:

撮影時:2024年12月27日

説明:石像である。像の台座には、「日本経済新聞」が彫られているが、これは氏が日本経済新聞を愛読していたためらしい。子どもたちが中心となって像を立てたようだ。ちなみに「桃里」地区はかつて浮島沼の一部だった。江戸時代初期に鈴木助兵衛が中心となって開墾、「助兵衛新田」と名付けられた。しかし明治期に「卑猥な地名」とされ、1909年に「桃里」(桃の栽培が盛んだったため)と改名された。

 

〇増田平四郎 (1807~1892)

 農政家。駿河国三島宿(現静岡県三島市)生まれで、同原宿の増田家の養子と言われるが不詳。駿河浮島沼の干拓と新田開発を企図し、排水路建設を計画、韮山代官所や江戸の勘定奉行などに何回も出訴し、ようやく許可を得て1869年に竣工したが.同年の高波で破壊。のちに身延山久遠寺の援助を受けるが、工事が完成することはなかった。

<増田平四郎像>

場所:増田平四郎碑(静岡県富士市沼田新田)

竣工: 1994年3月

像高:

作者:

撮影時:2007年5月27日

説明:石像である。一時完成した排水路は「すいほし(水干)」と呼ばれた。ちなみに浮島沼の干拓は、昭和に入って完成した。ここの干拓は人びとの悲願で、他にも高橋勇吉・野村一郎などがいる。