銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

岩手県編  その6

〇横川省三 (1865~1904)

 明治期の民権活動家、新聞記者、スパイ。陸奥国盛岡下小路(現岩手県盛岡市)生まれ。若くして自由民権運動に入り、加波山事件に関わり入獄する。さらに保安条例により、東京から追放されるなどした。その後朝日新聞記者、アメリカでの農場経営などを経て、日露戦争時にはスパイとして、満州に潜伏、チチハルで捕縛される。死刑になった際、所持金をロシア赤十字社に寄付した。 

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<横川省三像>

場所:報恩寺(岩手県盛岡市須川町31-5)

竣工: 1930年8月

像高:

作者:堀江尚志 (原像の鋳型である)

撮影時:2020年9月22日

説明:本来この像は、前回紹介した高松公園の神庭山に設置されていたものの鋳型。  

   戦時中の金属供出で失われ、立派な台座だけが残されている。

    ちなみに東京都港区には「横川省三記念公園」が(省三の旧居を公園化した 

   ものだが、麻布台地区の再開発で2019年に閉園)、岩手県花巻市東和町に「横  

   川省三記念公園」があり、省三の墓と記念碑が立っている。

 

〇富田小一郎 (1859~1945)

 女子教育の父。陸奥国岩手郡新庄村(現盛岡市)生まれ。盛岡、東京で学んだ後、岩手県尋常中学校(現盛岡第一高等学校)で教諭となり、その後私立盛岡商業学校(現盛岡商業高等学校)や私立盛岡実践女学校(現盛岡市立高等学校)の校長となり、両校の創設に尽力した。

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<富田小一郎像>

場所:報恩寺(岩手県盛岡市須川町31-5)

竣工:

像高:

作者:吉川保正

撮影時:2020年9月22日  

説明:「盛岡市立女子商業高等学校」の銘版があるが、これは私立盛岡実践学校の後身。現在は盛岡市立高等学校となっている。調べた限りでは、この銅像が現存しているようには思えない。原型像であろう。

  

〇柳原一郎 (1864~1936)

 教師、官僚。陸奥国稗貫郡好地村(現花巻市)生まれ。岩手師範学校卒業後、好地小学校教諭となり、多くの人材を育てた。退職後、石鳥屋杜氏酒造の事務長を経て、好地村村長から石鳥谷町長となった。 

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 <柳原一郎像>

場所:報恩寺(岩手県盛岡市須川町31-5)

竣工: 1931年9月(1945年に接収か?:1964年11月再建)

像高:

作者: 吉川保正

撮影時:2020年9月22日

説明:ここにあるのは、この像の原型(鋳型)。1931年作の像は、石鳥谷小学校の門前にあったが、戦争で供出され、1964年に復元されたらしい。小学校が統廃合され、この復元像は、「石鳥谷運動公園」にあるというが、Googleストリートビューを丹念に見ていたら、「花巻市役所ビバハウスいしどりや」が「旧石鳥谷小学校」だったようで、入り口の右側に胸像を発見した(施設の前のグラウンドを「石鳥谷運動公園」と呼ぶらしい)。次回に岩手県を訪問する際には、ここに行かねばなるまい!

  

〇鳴海廉之助 (1854~1920)

 資産家、篤農家。陸奥国西津軽郡車力村(現青森県つがる市)生まれ。青森県農耕銀行頭取、西津軽郡畜産組合評議員。産馬業、開墾、造林に従事し、そのた慈善事業をおこなった。 

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 <鳴海廉之助像>

場所: 報恩寺(岩手県盛岡市須川町31-5)

竣工: 1923年6月(屋外彫刻調査保存研究会の2009年までの調査によると、1922年作

   とある)

像高:

作者:堀江尚志

撮影時:2020年9月22日

説明:この像は、原型(鋳型)である。現物は青森県木造町照日(現つがる市)にあ

   ると銘板にあるが、実在は確認できなかった(この地には「青森県つがる家畜

   保健衛生所」なるものがあるので、ここにあったか?)。

 

これ以外に、報恩寺には、吉川保正作の「北田親氏(裸城)」像(高松公園に現存)と「三閉伊一揆の像」(田野畑村民俗資料館に現存)の原型(鋳型)も置かれている。

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 報恩寺は、江戸時代後期作の五百羅漢で有名な寺である。本堂から五百羅漢堂に向かう途中に、吉川保正や堀江尚志の作品が展示されている。

 堀江尚志は、盛岡出身の彫刻家(1897~1935)。早くに死んだため、遺作は20品ほどと言われている。渋谷駅のハチ公像を作った安藤照と一緒に活動をしていたそうだ。