考えてみれば、今日は私の誕生日でした…
〇宮沢賢治
略
<宮沢賢治像>
場所:もりおか啄木・賢治青春館(岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-25)
竣工: 1971年
像高:
作者: 高田博厚
撮影時:2020年9月22日
説明:もりおか啄木・賢治青春館は、第九十銀行本店本館(1910:横濱勉設計)をリノベーションしたもの(2002年)。現在国の重要文化財に指定されている。内部は、岩手県が誇る二人の文学者、石川啄木、宮沢賢治が若き日に過ごした盛岡とこの二人を紹介する施設となっている。入館料は無料である。
宮沢賢治像は、1971年に賢治の弟、宮沢清六氏の依頼で作った像だという。石川啄木の胸像(1965:舟越保武)もあったようだが、見落としてしまった。
〇岩持静麻 (1919~2005)
農政家、政治家。岩手県一関市生まれ。御明神村(現雫石町)村長を経て、岩手県議会議員(5期)。岩手県農業協同組合中央会会長、全国農業協同組合中央会会長。
<岩持静麻像>
場所:サンビル(岩手県産業会館)(岩手県盛岡市大通1-1-2-1)
竣工: 1999年6月
像高:
作者: 小野寺玉峰
撮影時:2002年9月22日
説明:サンビル(岩手県産業会館)は、盛岡城址のすぐ西側にある。「サン」は、「産業」の略だった…。1Fは、ショッピングモールという位置づけだが、私が行ったときは多くの店舗が撤退し、閑散としていた(ネット上の情報では10店舗)。スカスカで建て直しをするのかと思った。像は建物の裏、エレベーターホールの脇に、佐藤公一像とともに鎮座していた。
〇佐藤公一 (1889~1961)
岩手県の農協の医療・保健を功労者。岩手県東磐井郡渋民村(現一関市)生まれ。県立農学校卒業後、産業組合運動に従事し、県下に多くの組合病院を設立し(現在の県立病院)、晩年は県議会議員、県農業協同組合中央会会長となった。
<佐藤公一像>
場所: サンビル(岩手県産業会館)(岩手県盛岡市大通1-1-2-1)
竣工:1963年3月
像高:
作者:
撮影時:2020年9月22日
説明:岩持静麻像の左側にいる。
ちなみに、盛岡城址には、南部利祥中尉像があったが、戦時中の金属供出で台座だけになっている(日露戦争時に竹田宮恒久王を守り戦死。1908年に身体部分を新海竹太郎、馬を後藤貞行、台座を横濱勉<意匠は伊東忠太>で作られ、1944年に金属供出)。
〇鹿島精一 (1875~1947)
実業家、鹿島組(現鹿島)の婿養子となり、3代目組長(のち初代社長)。岩手県盛岡市生まれ。旧盛岡藩士葛西家に生まれる。鹿島組を鉄道建設にしぼって、丹那トンネルの難工事をやりぬき、「鉄道の鹿島」として、会社の発展の基礎を築いた。
<鹿島精一像>
場所:鹿島精一記念展望台(岩手県盛岡市川目第19地割80番:岩山公園内)
竣工: 1961年
像高:
作者: 伊東傀
撮影時:2020年9月22日
説明:この場所は、1962年に精一の娘婿(まただ)、鹿島守之助氏が建設した。展望台の上からは盛岡の町や岩手山が一望できる。像は展望台の階段踊り場にひっそりと佇んでいる。
〇石川啄木
略
<石川啄木像>
竣工:1982年11月
像高:
作者:照井栄
撮影時:2020年9月22日
説明:ここは「啄木望郷の丘」と名付けられた場所。像も「啄木望郷の像」と銘打たれ、その脇には啄木夫妻の歌も刻まれている。
〇柴内魁三(しばないかいぞう) (1879~1966)
身体障碍者教育を普及させた先人。岩手県盛岡市生まれ。日露戦争にて両目に銃弾を受け失明、軍人恩給を受けて生活するも、盲目でも社会に貢献できるのではないかと考え、盲唖学校教員練習科に入学、その後私費を投じて1911年私立岩手盲唖学校を設立し校長となる。1925年に県立に移管されるも校長を続けた。盛岡水道利用組合や盛岡病院(県立中央病院)の設立もおこなう、社会実業家であった。
<柴内魁三像>
場所:岩手県立盛岡視覚支援学校(岩手県盛岡市北山1-10-1)
竣工: 1981年9月
像高:
作者: 菊池政美
撮影時:2020年9月22日
説明:校舎の西側の正門から入り、生徒通用口の横にいる。この像は学校の創立70周年の際、校舎が新設されたときに設置された。
〇北田裸城 (?~?)
官僚。盛岡市長(4、6代で通算20年間務める)。本名北田親氏。高松ノ池を含めた高松公園の整備も手掛けた。
<北田裸城像>
竣工: 1961年
像高:
作者: 吉川保正
撮影時:2020年9月22日
説明:とあるブログにも書かれている通り、公園の中でもわかりにくいところに立つ。公園の東側の丘の木立の中(神庭山というらしい)で、下の通路からは見つけることができない。トイレの脇から尾根筋を登っていくと見つかる。脇には横川省三の台座もある(横川省三の詳細はのちに)。
〇樋下正光 (1930~2006)
実業家、政治家。樋下建設(当時は蔦樋組)の創業者。盛岡市議、岩手県議を歴任。松園寺(盛岡大仏)を建てた。
<樋下正光像>
竣工:1997年7月
像高:
作者:熊谷友児
撮影時:2020年9月22日
説明:像の脇の碑文を読むと、寿像であることがわかる。まあ、略歴でもいろいろとやられている。像は、寺の境内の右奥のほうにある。
また像の立つ松園寺は、盛岡大仏を含めてキッチュな感じの寺である。山門から上がっていく参道沿いには多くの石碑が…。その多くにはあまり意味のない(「根性」とか「努力」とか)。大仏の周りにも多くの石像が立ち並び、その脇には建築機械(ユンボ)が(詳細は小島独観氏の「珍寺大道場」を参照のこと)。
〇藤村益治郎 (?~1998?)
造園家。造園会社の「豊香園」社長。1932年の盛岡地裁の火事の際、「石割桜」を父の藤村治太郎と共に守ったことで有名。
<藤村益治郎像>
竣工:
像高:
作者: 田畑功
撮影時:2020年9月22日
説明:本堂(たぶん…)のすぐ脇にいる。法被に「豊香園」の名が刻まれ、地下足袋をはく、おそらく桜などを見上げているだろう姿である。