〇義堂周信(1325<正中2>年~1388<元中5/嘉慶元>年)
絶海中津(1334<建武元>年~1405<応永12>年)
義堂周信:南北朝時代から室町時代前期の臨済宗の僧。夢窓疎石の門弟。京都で修業後鎌倉に下向し、鎌倉公方足利基氏や関東管領上杉氏に禅宗を教える。京都に戻り、足利義満に相国寺建立を進言、建仁寺や南禅寺の住職を歴任する。『空華集』などの著書を持つ、五山文学を代表する学問僧である。
絶海中津:南北朝時代から室町時代前期の臨済宗の僧。地元の豪族、津野氏の出。夢窓疎石に仕える。明に渡海し、洪武帝にも謁見する。帰国後鹿苑院(足利義満の墓所。現存せず)や等持院(足利尊氏の墓所)、相国寺の住持を歴任する。『蕉堅集』などの著書を持つ。周信と並ぶ五山文学を代表する学問僧であり、室町前期に多くの武将や天皇などから帰依を受けた。
<義堂周信・絶海中津像>
竣工: 1975<昭和50>年6月
像高:
作者:濱田浩造
撮影時: 2006年8月24日
説明:私が銅像ハンティングを本格的に始めるきっかけとなった像。2006年夏、愛媛県を周ろうと決めていた私が、雑誌「るるぶ」の後ろのページにある愛媛県の地図を眺めていたところ、愛媛県から県境を越えてすぐの所に「四万十川源流」の文字を見つけ、さらにその脇に「義絶の像」の記載を見つけた。「義絶?」そこからいろいろ調べたら、「義絶」は室町前期の五山僧「義堂周信」と「絶海中津」だと分かった。高校の日本史では、室町文化で必ず出てくる二人。「五山文学」を発展させ、幕府の外交顧問でもあった、とされる。しかし、漢詩文学の「五山文学」は説明しにくいし、僧侶が外交顧問であるということも生徒には伝わりにくく、授業では通り一遍の説明でお茶を濁していた人物である。その二人が、高知県(当時の土佐国)のこんな山の中の出身とは…。俄然興味がわいてきた。そこで愛媛県の久万高原「四国カルスト」を見たあとでこの地へと足を運んだのであった。県境を越えると舗装は途切れ、轍の深い悪路となった。ソロソロと下っていくと、「堂海森林公園」の看板と二人の銅像が立っていた。ご多聞に漏れず、鳥の糞がかかっている「義堂周信像」、その隣にりりしい「絶海中津」像。教科書レベルの有名人の出生地がこんな山の中であること、しかも同じ「五山文学」の二人が同じ出身であること、に驚いた。また出生地などには銅像が立っている可能性があること、に気づいた。「日本史に載っている場所を網羅して見てこよう!」と日本のあちこちを旅してきた私が、その目的をかなり達成し、旅の目的を失いつつあった中、新しい旅の目的を見つけた瞬間でした。以降10年以上飽きもせず、銅像ハンティングを続けているわけです。
義堂周信は堂海森林公園のちょっと下の中村が出身地、絶海中津は船戸が出身地です。現地に行くといずれも誕生地の石碑が立っているようです。
ちなみに両像のモデルを探してみましたが、義堂周信は。絶海中津は、画像が慈眼院にあるが、似ているかは?