野中兼山 (1615<元和元>年~1664<寛文>年)
江戸時代初期の土佐藩家老。谷時中に朱子学(南学)を学び、実践に努めた。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いて領民の恨みを買い、最後は藩内から糾弾され失脚、一族が絶えるまで家族全員が幽閉された。新田開発、土木事業(手結港)などその功績は大きい。
<野中兼山像1>
場所:帰全山公園(長岡郡本山町本山)
竣工: 1969(昭和44)年
像高:
作者:
撮影時: 2012年1月9日
説明:高知県の山の中、本山町の中心にある帰全山公園にある。左手に地図を持ち、工事の指揮を執っている姿だそうだ。
この地は兼山の所領であり、初めて納めた地。母の秋田夫人の墓所があり、近くには兼山を顕彰した兼山廟もある。
<野中兼山像2>
場所:高知市春野町秋山(兼山の郷公園)
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2012年1月7日
説明:この地は兼山が八田堰を作り、仁淀川から取水して用水路を作り、またその流路の段差を調整するために「新川の落とし」を作ったところで、結果として春野地区に多くの新田が開墾された(兼山を祀る春野神社もある)。この用水路は単なる農業用水だけでなく、高知城下への輸送路の役割を果たしたようである。