銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

秋田県編 その6

 〇菊池祐寛  (1884<明治17>年~1977<昭和52>年)

 僧侶。社会福祉事業家。浄土真宗大谷派。大正の初めから秋田市専念寺住職。養護老人ホームの運営、民生委員児童委員を長く務めた。

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<菊池祐寛像>

場所:秋田市旭南1-5-6(秋田聖徳会養護老人ホーム

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2012年8月25日

説明:秋田駅の西側、寺の集まっている一角にある。銅像主が長く住職を務めていた専念寺もすぐ近くである。

  

〇佐竹義榮(さたけよしなが)(1914<大正3>年~1983<昭和58>年)

 侯爵。旧秋田藩佐竹家の第14代当主。大学卒業後は国家公務員をし、1944年から貴族院議員。戦後は徳川黎明会監事などをした。 

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<佐竹義榮像>

場所:秋田市立佐竹史料館(秋田市千秋公園1-4)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月25日

説明:佐竹史料館内にいる。

 

佐竹義堯(さたけよしたか) (1825<文政8>年~1884<明治17>年)

 大名・華族陸奥相馬藩相馬益胤の三男。久保田新田藩(のち岩崎藩)佐竹義純の養子となり、さらに佐竹宗家を相続し、第12代藩主となった(当初の名は佐竹義就)。幕末は京都警備などし、戊辰戦争時は旗幟を鮮明にしなかったが、最後に新政府側に就いた。

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 <佐竹義堯像>

場所:千秋公園秋田市千秋公園1)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月25日

説明:1915<大正4>年に「戊辰勤皇記念銅像建設委員会」によって秋田城址本丸に立てられたが、1944<昭和19>年に金属供出で解体撤去された。1953<昭和28>年に佐竹家から銅像が寄贈されたが小さく、市制100周年の1989<平成元>年、戦前と同じ大きさのものが復元された。

 

東海林太郎(しょうじたろう)(1898<明治31>年~1972<昭和47>年)

 歌手。秋田市生まれ。満鉄に勤務後、東京で下八川圭祐に師事してクラシック音楽を学ぶ。昭和9年「赤城の子守歌」が大ヒットし、一躍流行歌手となる。

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東海林太郎像>

場所:秋田県民会館秋田市千秋明徳町2-52)

竣工: 1975<昭和50>年

像高:

作者: 分部順治

撮影時: 2012年8月25日

説明:幼心ながら。直立不動で歌う姿の記憶がある。一緒にある歌碑は、「母に捧ぐる歌」。もともとは秋田県民会館の敷地内にあったようだ。この地には1986<昭和61>年に移動。同所は2018年5月で閉館し、建て替え工事中。秋田魁新報によると、東海林太郎像はアトリオン(秋田県総合生活文化会館・美術館)1Fに仮置きされている模様(歌碑は旧県立美術館で保管)。県民会館が新設されると、その近くに再設置される見込み。

読みは「しょうじたろう」だが、そのルーツは山形県でだが、ここでは「とうかいりん」と読む方が普通らしい。しかし秋田県では「しょうじ」。何でそう読むのかは、さまざまな謂れがあるが、わかりやすいのはこの説。山形県(出羽)の「東海林」さんが秋田県(羽前)に来て「庄司」(荘園の現地管理人)をやった。「庄司の東海林」さんが詰まって、「東海林」の字で「しょうじ」と読むようになったとか。さらにこの「東海林太郎」(しょうじたろう)が有名になったので、「東海林」を「しょうじ」と読むようになったとか。

 

 

藤田嗣治(ふじたつぐはる)  1886<明治19>年~1968<昭和43>年)

 洋画家。東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画本科を卒業後、フランス・パリに渡り、モンパルナスにアトリエを構える。昭和15年帰国し、戦時中は戦争記録画を制作。昭和30<1955>年フランスに帰化。 

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藤田嗣治像>

場所:旧平野政吉美術館(秋田市千秋明徳町)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月25日

説明:旧平野政吉美術館入り口にあった。石膏像か?この美術館が2013年6月に閉館し、堀を挟んだ反対側の秋田県立美術館に作品が移された。しかしネットを見る限り、藤田嗣治像と平野政吉像は見当たらない…。

 

 

〇平野政吉 (1895<明治28>年~1989<平成元>年)

 実業家。秋田市の商人町で米穀商を営んだ平野家の三代目。若くして骨董などに興味を持ち、美術品を蒐集した。また藤田嗣治の作品に出会い、藤田の作品を多く購入し、1967<昭和42>年になり、集めたコレクションを公開するために財団法人平野政吉美術館を設立、現在は秋田県立美術館としてコレクションを展開している。

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<平野政吉像>

場所:旧平野政吉美術館(秋田市千秋明徳町)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月25日

説明:旧平野政吉美術館入り口にあった。石膏像か?この美術館が2013年6月に閉館し、堀を挟んだ反対側の秋田県立美術館に作品が移された。しかしネットを見る限り、藤田嗣治像と平野政吉像は見当たらない…。

 

 

〇小花冬吉  (1856<安政3>年~1934<昭和9>年)

 製鉄技師、学者。幕臣の子として江戸に生まれる。明治になり工部寮に入り、日本の地震学の父、ミルンに鉱山冶金学を学ぶ。留学をして多くを学び、鉱山や製鉄所の義士を歴任、1910<明治43>年秋田鉱山専門学校(現秋田大学工学資源学部)が出来ると初代校長となった。

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<小花冬吉像>

場所:秋田市手形学園町1-1 (秋田大学理工学部1号館の中庭)

竣工: 1950<昭和25>年10月

像高:

作者:

撮影時: 2012年8月25日

説明:1930<昭和5>年5月に建てられたが、戦時中に金属供出され、1950<昭和25>年に再建された。