銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

秋田県編 その12

〇小田野直武  (1750<寛延2>年~1780<安永9>年)
江戸時代の画家。秋田藩士。角館生まれ。平賀源内から洋画を学び、「秋田蘭画」と呼ばれる一派を作った。源内の推薦で『解体新書』の挿絵を担当した。 

f:id:tagutti:20181228140812j:plain

<小田野直武像>
場所: 青柳家秋田県仙北市角館町表町下丁3)
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:この像は石像である。青柳家と小田野家は親戚で、現在角館武家屋敷群の一角を為す「青柳家」にこの像は置かれたようだ。敷地内のは「解体新書記念館」もある。近くの「石黒家」には『解体新書』初版本の写しが展示されている。また田町には「小田野直武顕彰碑」があり、解体新書の表紙をレリーフ化して石碑に貼ってある。
 
〇佐藤義亮  (1878<明治11>年~1951<昭和26>年)
実業家。新潮社の創設者。

f:id:tagutti:20181228140845j:plain

<佐藤義亮像>
場所:新潮社記念文学館(秋田県仙北市角館町田町上丁23)
竣工: 1953<昭和28>年7月
像高:
作者: 朝倉文夫
撮影時: 2012年8月26日
説明:この像は、新潮社のロビーにある像と同じである。1953年に角館町の「佐藤義亮先生顕彰会」が、火除け地広場に立てたが、1999<平成12>年に現在の総合情報センター正面玄関に移設した(複雑なようだが、施設全体が「総合情報センター」。その一部が「新潮社記念文学館」のようだ)。
 
 
村野孝顕  (1901<明治34>年~1989<昭和64>年?)
 曹洞宗僧侶。アメリカでの布教活動に従事。曹洞宗の海外布教伝を編集。帰国後「かくのだて幼稚園」を創設。

f:id:tagutti:20181228140927j:plain

 <村野孝顕像>
場所:久米山常光院(秋田県仙北市角館町西勝楽町25)
竣工: 1983<昭和58>年
像高:
作者: 小金丸幾久
撮影時: 2012年8月26日
説明:この像は「かくのだて幼稚園」の創設30周年記念で作られた寿像。どうもその後「かくのだて幼稚園」は廃園となっているようだ。
 
 
日蓮 

f:id:tagutti:20181228141005j:plain

日蓮像>
場所:学法寺(秋田県仙北市角館町西勝楽町63)
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:寺は、東北の名家芦名家に繋がり、須賀川藩の二階堂家の菩提寺でもある。門前に立つ。像の台座に貼っている「お勉強じぞう」は、Googleストリートビュー(2018年7月)にも見えるので、ずっと貼ってあるようだ。 私の写真ではパウチされた紙のようだが、ストリートビューでは御影石に彫ったものに変わったようだ。画面の左下にいる石のお地蔵さんのことらしい。
 
〇濱田謹吾  (1854<嘉永7>年~1868<明治元>年)
肥前(現長崎県大村藩士。戊辰戦争に鼓手(進軍をリズミカルに進めるため、勇気づけるために太鼓をたたく兵士)として従軍。1868年の出羽刈和野秋田県仙北市)の戦いで戦死。享年15歳。着衣の襟もとに母の歌「二葉より手くれ水くれまつ花の君がためにぞ咲けよこの時」の短冊が縫い付けられていたという。 

f:id:tagutti:20181228141132j:plain

<濱田謹吾像>
場所:神明社秋田県仙北市角館町岩瀬117)
竣工: 1987<昭和62>年
像高:
作者:
撮影時: 2012年8月26日
説明:厳密には神明社よりも南側の丘(天神山)の上に立つ。神明社とは別の登り口もある。謹吾少年は襟元の母の歌のおかげで当地に手厚く葬られ、1979年には長崎県大村市秋田県角館町姉妹都市になった。現存している謹吾少年の写真と比較すると、大人びた写真に対し、この像は子どもっぽ過ぎる気がする。少年の墓は、角館の常光院と大村市の浜田家墓地(久原1丁目)にある(大村市銅像は大村公園にある)。

f:id:tagutti:20181228141210j:plainf:id:tagutti:20181228141407j:plain

※写真は、大村市観光情報サイトより

 


〇円満造(えまぞう)  (1868<明治元>年~1945<昭和20>年)
「ドンパン節」の元唄の作者。本名高橋市蔵。若くして大工となり、宮大工として活躍、「当方の左甚五郎」と呼ばれた。三味線や唄が得意で、仕事の合間に手斧で拍子を取り、秋田甚句の合いの手を独立させたのが「円満造甚句」。これを1935年ごろ、大工仲間で民謡歌手の黒沢三一がアレンジしたのが「ドンパン節」である。

f:id:tagutti:20181228141559j:plain

<円満造像>
場所: 大仙市中仙総合支所(秋田県大仙市北長野茶畑北長野茶畑141)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2012年8月26日
説明:宮大工なので、背中にコダシを背負い、左手に手斧を持つ。近くの「道の駅なかせん」にあるからくり時計の上には、円満造が米俵に腰かけている。飄々とした感じの変人だったらしく、この像もその感じが出ている。
 
 
 
〇坂本理一郎  (1861<文久元>年~1917<大正6>年)
 政治家。雅号は東嶽。羽後国千畑町(現秋田県仙北郡美郷町)に生まれ、若くして上京、さまざまに学んだあと帰郷し、郡会議員、県議会議員衆議院議員3期、さらに貴族院議員となった。地元の農業の普及、教育に貢献した。村づくりにも尽力し、一丈木台地を公園に、その下に役場・学校などの公共施設を配置し、そこから各地区へ6本の直線道路を放射線状に配し、松・杉で植栽するなど、かなりモダンなものだった。

f:id:tagutti:20181228141659j:plain

<坂本利一郎像>
場所:一丈木公園(秋田県仙北郡美郷町浪花一丈木1-3)
竣工: 1955<昭和30>年(元像は1923<大正12>年)
像高:
作者: 関長造(元像は佐藤泰山)
撮影時: 2012年8月26日
説明:1923年建立の像は、1943年に金属供出で撤収され、1946年に顕彰碑が立っていた(題字は井上広居)。その後1955年に銅像が復興された。フロックコートを着た、動きのない像である。自宅(千屋中小森91)は遺族により町に寄贈され、家屋は当時の四分の一程度だが、庭園は当時のまま残されている。ここに胸像があるらしい。

 

 

◎撮り損なった銅像

☆浅利佐助(秋田県鹿角市花輪観音堂27-3 ㈱浅利佐助商店内)

 1872<明治5>年創業の浅利佐助商店3代目。味噌・醤油を醸造している会社。

内藤湖南秋田県鹿角市十和田毛馬内柏崎 旧宅蒼龍窟)

毛馬内柏崎新城本丸付近。東洋史の学者。京都帝大教授。邪馬台国論争では畿内説を主張した。

☆小坂正治郎(秋田県男鹿市船川港椿中山 県道59号線沿い)

 男鹿市の市議会議長だったらしい。

☆山城ミヨ(秋田県大館市比内町扇田南扇田79 寿仙寺)

 戊辰戦争秋田戦争の際、久保田藩の軍夫の要請に、亡くなった夫の代わりに男装して参加、炊事と物資運搬に励んでいたが、大舘の二井田街道で敵弾に被弾して戦死。靖国神社の女性第1号の祭神となったそう。

葛巻久八(秋田県秋田市雄和田草川字鱸155―55 ㈱八永南部家敷本社)

 「南部家敷」という飲食店(そば・天ぷらなど)のチェーン店の社長らしいですね。ホームページを見ると、ニ宮金次郎の精神ということで、本社入り口には「二宮金次郎」像もいます。