〇境米蔵 (1897~1978)
政治家。熊本県鹿本郡桜井村(現熊本市北郡植木町)生まれ。桜井村村長、熊本県議会議員、初代植木町の町長(3期)を歴任。
<境米蔵像>
竣工: 1979年5月
像高:
作者:
撮影時:
説明:境氏は町長として、田原坂の史跡の整備に尽力を注ぎ、慰霊塔や資料館などを建てたことで、この地に像が立ったようだ。
〇小材学(こざいまなぶ) (1925~1992)
政治家。熊本県鹿本郡植木町(現熊本市北区植木町)生まれ。自民党熊本県連会長、熊本県議会議員、県議会議長、九州各県県議会議長会会長、を歴任し、熊本政界のドンと言われた。
<小材学像>
場所:JA鹿本植木支所(熊本県熊本市北区植木町岩野220-2)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月1日
説明:当初は旧植木町役場に像は立っていたらしい。手に持っているのは地球儀ではなくウリのようだ。これはウリミバエという害虫の駆除に成功したため。
〇菊池武時 (1292~1333)
鎌倉時代末期の武将。菊池氏の第12代当主。鎌倉時代末期の九州では新たに設置された鎮西探題の支配に対し、御家人たちの不満が高まっていた。1333年に武時は後醍醐天皇の綸旨を基に挙兵をしたが、探題方の少弐貞経、大友貞宗らと戦い討ち死にした。しかしこの後少弐氏、大友氏も倒幕側に変わり、鎮西探題は滅ぼされた。
<菊池武時像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2018年2月1日
説明:下の広場にある菊池武光像に比べ、かなり小ぶりであるが、像のある菊池神社は、武時、武重、武光を祭神としている。熊本市の三賢堂(熊本市西区島崎5-32-27)の堂内にも武時像(坐像)があります(他の二人は、加藤清正と細川重賢)。ただし、事前に熊本市文化振興課に連絡をしないと堂内は見学できない(私は直接行ったので堂内は見れなかった)。
〇松尾敬宇 (1917~1942)
海軍軍人。熊本県鹿本郡三玉村(現山鹿市)生まれ。太平洋戦争のシドニー湾攻撃で、特殊潜航艇「甲標的」艦長として出撃するも戦死した。その後オーストラリア海軍により艦は引き上げられ、オーストラリア海軍により軍葬が為されたのち、遺骨は日本へと送られた。
<松尾敬宇像>
竣工: 1969年
像高:
作者:
撮影時:2018年2月1日
説明:手に持つ刀は、出撃時に父から託された「菊池千人槍を短刀に直したもの」。またこの像は、戦後松尾氏の母がオーストラリアへ葬儀の感謝のために訪れた時に立てたものらしい。
〇菊池武光 (1319?~1373)
鎌倉末期から南北朝期の武将。菊池氏第15代当主。肥後港益城郡豊田荘(現熊本市南区城南町)生まれ。菊池武時の九男。南北朝時代の九州の南朝方のリーダー格。後醍醐天皇の子、懐良親王を支えて活躍した。1359年の筑後川合戦など、九州を支配下に置くなどしたが、徐々に勢力を減じていった。
<菊池武光像>
竣工: 1898年2月
像高: 4.5m
作者: 中村晋也
撮影時:2018年2月1日
説明:騎馬像としては、東京の皇居前広場の楠木正成像とともに大きく、人気の高い一体。武光像は、ほかに筑後川合戦の舞台であった、福岡県の大刀洗町にもある。
〇高木元右衛門 (1833~1864)
幕末の武士。肥後国菊池郡深川村(現菊池市)生まれ。熊本藩の郷士。諱は直久。武芸(宝蔵院流槍術など)に優れ、1862年に京都御所の警備につき脱藩、翌年の八月十八日の政変では、七卿落ちの護衛として長州へ赴く。その後は京都で活動し、池田屋事件では難を逃れたが、禁門の変で戦死した。
<高木元右衛門像>
竣工: 2010年10月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月1日
説明:池田屋事件のとき、盟友の宮部鼎蔵らは斬られたが、元右衛門は近藤勇と斬りあいながら包囲網を突破し、長州藩邸に逃げ込んだという。
〇孝子孫次郎 (?~?)
江戸時代前半の人。肥後国山鹿生まれ。湯町、上町に住み、貧しい鍛冶屋だったが、温泉好きの80代の母親を背負って毎日入浴させていたことが、肥後藩主細川綱利に伝わり、1666年に褒章を受け、肥後国の鍛冶の総取締を命じたという。(『山鹿温泉誌』)
<孝子孫次郎像>
竣工: 1970年8月
像高:
作者: (本田健次氏の建立とあるが、おそらく出資者)
撮影時:2018年2月2日
説明:石像である。「孝子」とは、父母によく仕える子供のこと。山鹿市北公園近くの「西南戦争山鹿官軍墓地」側に石碑が立っている。市内にはほかにも像があるという(確認はとれていない)。
〇富田甚平 (1848~1927)
農業技術者。肥後国菊池郡砦町(現菊池市七城町)生まれ。湿田の乾田化のために地下水の排水法を考案、「富田式暗渠排水法」として確立。郷里の熊本をはじめ、鹿児島・山口・秋田など全国の湿田の土地改良や農業技術の指導に努めた。
<富田甚平像>
竣工: 1991年12月
像高:
作者:
撮影時:2018年2月1日
説明:これは顕彰碑につくレリーフ像である。碑の立つ場所は甚平の墓所であり、「台(うてな)城」の跡地である。また甚平の発明した技術は「日本遺産」の構成文化財だそうだ。