銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

徳島県編 その9

〇山本最純 (1885~1966?)

 実業家。徳島県名西郡神山町出身。センター興業社長(センターストーブで有名だったらしい)、出身の神山町鬼籠野(おろの)に貢献し、トンネルの開削、温泉を試掘しその泉源を町に寄付したりした。 

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<山本最純像>

場所:神山町立郷土資料館前(徳島県名西郡神山町鬼籠野川東119)

竣工: 1959年?3月

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月6日

説明:正確には資料館前の交差点の反対側、戦争関係の石碑の立つ一角に崖下にいる。地域の大立者のようだ。いろいろな資料を比較すると、寿像として作られたか?地域の有名人(政治家や実業家や教育者など)は勲章を授与されたときに銅像を作る傾向があるので、この像も勲章を2つ付けているからその時に作られたのかもしれない。

 

空海と衛門三郎  (?~?)

 (ここでは「衛門三郎」のみを記述)四国霊場にかかわる伝説上の人物。平安前期に伊予国浮穴郡荏原郷(現愛媛県松山市)の豪農で衛門三郎という者がいた。権勢をふるっていたが、欲深く信望も薄かったらしい。ある時みすぼらしい僧が托鉢に来たが、衛門三郎は追い払った。八日続けてきたが、八日目に僧が掲げていた鉢を、衛門三郎が箒でたたき割り、鉢は8つに割れてしまい、それきり僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。以降三郎の8人の子供が毎年一人ずつ亡くなり、三郎が哀しみに打ちひしがれていると、三郎の夢に大師が現れた。三郎は初めてあの僧が弘法大師であったことに気づき、懺悔の気持ちから田畑も家も売り払い、大師を求めて四国巡礼の旅に出た。そして、23回目の巡礼中の阿波国徳島県)の焼山寺の杖杉庵で病に倒れる。そこに大師が現れ、死期の迫った三郎に「衛門三郎再来」と書かれた石を握らせた。その後伊予の領主河野家に生まれた子供が石を握ったままで、その石を取り出すと「衛門三郎再来」と書かれた。この石を祀ったのが松山市の「石手寺」だという。 

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空海と衛門三郎像>

場所:杖杉庵(じょうしんあん)(徳島県名西郡神山町下分地中174)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月6日

説明:この地は衛門三郎の亡くなったところで墓所もあり、四国八十八か所霊場の番外札所。墓の背後には弘法大師が衛門三郎の墓標代わりに植えた杉の巨木があったが、江戸中期に焼失し、現在のものは2代目という(それにしても大きい)。四国巡礼にとってはルーツといってもいい場所だろう。 

 

〇岡本監輔 (1839~1904)

 江戸末期から明治期の探検家、官吏。阿波国穴吹町(現徳島県美馬市)生まれ。

幕末に3度にわたって樺太を調査し、蝦夷地の開拓を目指した。明治に入り、開拓使に属して樺太開拓を目指すが、政府の方針に不満を抱いて辞職。以後は台湾で語学を教えるなどした。号は葦庵。 

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<岡本監輔像>

場所:美馬市役所(徳島県美馬市穴吹町穴吹字九反地5)

竣工:

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月6日

説明:徳島尋常中学校(現城南高校)の校長になったとき、時の政府の政策、外交を批判して生徒の心を揺さぶり、そのため校長を辞めさせられた。その際全校生徒は抗議のため休校をしたという。脇差を指し髷を結った姿の像である。

 

 

〇三宅弥之治郎  (?~?)

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<三宅弥之治郎像>

場所:光泉寺徳島県美馬市穴吹町三島舞中島1443)

竣工: 1962年12月

像高:

作者: 坂東文夫

撮影時: 2014年1月6日

説明:寺の境内には、アインシュタインが墓碑を書いた「三宅速」氏の墓がある。たまたま船の中で二人は知りあい、アインシュタインが発病した際に、三宅氏が治療したのが縁で、友情が深まったとされる。三宅氏は1945年に岡山が空襲に遭った際に亡くなり、その墓碑銘をアインシュタインが書いたのだという。特に何の指摘もないが、同じ寺に同姓の人なので、この弥之治郎氏も関係者ではないだろうか?

 

〇井口誠一  (?~?)

 実業家。徳島県脇町出身。日本アート製紙(のちの日本加工製紙(2002年倒産))を創設し、社長となる。

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<井口誠一像>

場所:脇町高校(徳島県美馬市脇町大字脇町1270-2)

竣工: 1956年5月

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月6日

説明:井口氏は母校のために尽力し、東京に進学する生徒のために育英事業をしていたことから、像が立てられたようだ。

 

 

後藤田正晴  (1914~2005)

 官僚、政治家。徳島県麻植郡東山村(現吉野川市美郷)生まれ。東京帝国大学卒、内務省に入省し、戦後警視庁長官となる。その後衆議院議員(7期)。自治大臣国家公安委員長内閣官房長官法務大臣、副総理などを歴任。自民党ご意見番として国政を支えた。 

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後藤田正晴像>

場所:後藤田正晴軌跡公園(徳島県吉野川市美郷峠464-3)

竣工: 2010年12月

像高:

作者:

撮影時: 2014年1月6日

説明:これは銅像ではないが、今まで見たことのないタイプの顕彰碑なので紹介する。写真を陶板に焼き、顕彰碑と事跡を紹介する文章の陶板を並べたもの。陶板といえば、鳴門市にある「大塚国際美術館」を思い出す。銅像ハンターとしては、このタイプが広まってしまうと哀しいが、ちょっととであれば、こんなものもありかな?と感じます。

 

 

※なお、国道193号線を南下し、四国山地に分け入った名西郡神山町上分の奥、大中尾公衆トイレ付近に「森吉大郎」像、剣山の麓、劒神社に「馬岡晃」像(三好氏東祖谷菅生203)があるが、今回は撮影ができなかった。