銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

滋賀県編  その10

お久しぶりです。母が亡くなり、諸事に追われていましたが、まあ何となく落ち着いてきたところです。では…

 

羽柴秀吉(木下秀吉) (1537~1598)

 (ここでは、長浜時代を中心に)1570年に、織田信長と共に朝倉義景を攻めていたが、信長の妹婿浅井長政の裏切りに遭い絶体絶命となるが、秀吉は池田勝正明智光秀と共に殿軍を務め、織田軍をピンチを防いだ。その後の姉川の戦い小谷城攻めで活躍した。そして、1572年頃に丹羽長秀柴田勝家から一字ずつもらって羽柴姓を名乗っている。1573年に浅井氏が滅ぶと、信長から北近江三郡をもらい受け、当時「今浜」だったところを「長浜」と改名し、長浜城主となった。

羽柴秀吉像>

場所:豊公園長浜城天守閣跡)( 滋賀県長浜市公園町1325)

竣工:1971年3月

像高:

作者:岩本圭介

撮影時:2012年4月29日

説明:豊公園は、長浜城址を中心とした公園。現在立つ「長浜歴史博物館」は、天守閣の跡ではない。

 

〇村上義一 (1885~1974)

大正期から昭和期の官僚、実業家、政治家。滋賀県東浅井郡虎姫町(現・長浜市)出身。鉄道院(のちの鉄道省)に入ったのち、南満州鉄道株式会社の理事となる。日本通運の社長を経て、戦後幣原喜重郎内閣、第3次吉田茂内閣で運輸大臣近鉄の社長などを務めた。

<村上義一像>

場所:豊公園長浜城天守閣跡)( 滋賀県長浜市公園町1325)

竣工:1968年5月

像高:

作者:中川清

撮影時:2012年4月29日

説明:長浜歴史博物館の脇に立つ。なお東京都小金井市多磨霊園墓所にも像が立つ。

 

常陸山谷右衛門 (1874~1922)

 明治後期の横綱。 茨城県東茨城郡(現在の水戸市)出身。本名市毛谷右衛門。第19代横綱日露戦争の頃には、梅ケ谷藤太郎と「梅常陸時代」を築いた。人格的にも優れ、引退後年寄出羽ノ海を襲名したが、48歳で亡くなるまでに3横綱栃木山・大錦・常ノ花)4大関(九州山・對馬洋・大ノ里常陸岩)を育てた。

常陸山谷右衛門>

場所:慶運館( 滋賀県長浜市港町2−5)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2012年4月29日

説明:石像である。慶運館は、明治天皇皇后両陛下が、京都行幸の帰りに大津から長浜まで船を使うことを聞いた長浜の実業家浅見又蔵(2代)が、私財を投じて建てた施設。この浅見氏が常陸山を贔屓としていたことから、この地に像が立つ。出身地の茨城県水戸市の生誕地(水戸市城東2-1-4)にも像が立つ。

 

羽柴秀吉石田三成 (略)

 秀吉は長浜城主時代に、石田三成と出会っている。

 

羽柴秀吉石田三成

場所:長浜駅東口(滋賀県長浜市北船町1)

竣工:1984

像高:

作者:

撮影時:2012年4月29日

説明:これは有名な「三献の茶」。この頃三成は佐吉の名乗り、観音寺(米原市)に小姓として勤めていた。ある日鷹狩りの帰りに大汗をかいた秀吉が訪れると、大きな茶碗にぬるい茶を一献、秀吉がもう1杯を所望すると、先ほどよりやや熱い茶を一献、もう1杯を所望すると、小さな茶碗に熱い茶を出した。これを受けて、秀吉は三成を召し抱えたという。

この頃は、ブログを作るなど何を考えていなかったので、並んでいる2体を別々に撮った写真かありませんでした…

 

加藤清正 (1562~1611)

 戦国期から安土桃山期の武将。尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)生まれ。秀吉の又従兄弟で、秀吉が長浜城主時代に小姓として仕えた。賤ケ岳の戦いでは、「七本槍」の一人として活躍した。

加藤清正

場所:豊国神社(滋賀県長浜市南呉服町6-37)

竣工:1981年7月

像高:

作者:一ノ瀬高級美術銅器製作所

撮影時:2012年4月29日

説明:神社は、秀吉が長浜城主となった1573年に開かれたという。当初の像は、戦時中の金属供出で失われたようだ。豊国神社のHPでは護衛をしていると書かれている。それにして後ろの電柱が邪魔だ…