銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

佐賀県編 その14

今回で、一応佐賀編は終了です。

 

鍋島直正(斉正) (1815~1871)

 江戸時代末期の佐賀藩主。江戸期は徳川11代将軍家斉の偏諱を受け、斉正だった。藩政改革を遂行し、一方洋学を推進して、「蘭癖大名」と呼ばれるくらいだった。天然痘の種痘の普及、反射炉の導入による、アームストロング砲、蒸気船の完成など。結果、幕末に財政再建と軍備の近代化に成功した。討幕運動には積極的ではなかった肥前藩だが、直政の育てた多くの人材が活躍するなど、明治維新後は「薩長土肥」の一角を担うこととなった。号は閑叟。 

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鍋島直正像>

場所: 佐賀城址鯱の門北側(佐賀市城内2-18-1)

竣工: 2017年3月

像高:約4m

作者:徳安和博

撮影時:2019年6月2日

説明:現在の像は2代目。初代は1913年11月、佐賀市松原の松原神社と佐賀中央郵便局の間の広場に設置された。隣には古川石根(直正に仕えた国学者)の像を造られた。銅像の広場は整備され、「銅像園」と呼ばれるようになり、周りには「徴古館」「佐賀図書館」も作られた。しかし1943年に金属供出で失われてしまった。ちなみにこの時の台座は、牛津公民館(旧牛津町役場)の東側の英霊碑の台座となっている。この台座は、反射炉をモチーフとしたものになっている。

 

鍋島閑叟と種痘の像  

 鍋島直正(閑叟)像のところで説明したとおり、直正は天然痘の種痘を打つことで予防することに成功したが、この像はその種痘を閑叟が息子の淳一郎(のちの11代藩主直大)に打っているところである。実際に治療しているのは侍医の大石良英である。 

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鍋島閑叟と種痘の像>

場所: 佐賀市医師会看護専門学校の奥(佐賀市水ヶ江1-13)

竣工: 1996年11月

像高:

作者: 成富宏

撮影時:2019年6月2日

説明:もともとこの地は、佐賀県医療センター好生館であった。好生館は、鍋島直正が医療を施す機関として1834年に作った「医学館」が1858年に好生館として移転された場所である(1896年から佐賀県立病院好生館)。手狭になったことなどから、病院は西武の嘉瀬地区に移転した。像は好生館の百周年を記して記念庭園とともに造ったが、現在は佐賀県医師会看護専門学校の駐車場わきにぽつんと置かれている。

 

 

〇岡田三郎助 (1869~1939)

 明治から昭和期の洋画家。東京芸術学校(現東京芸術大学)教授。久米桂一郎、黒田清輝と白馬会の創立に参画した。「美人画の岡田」と称され、代表作は「婦人像(某夫人の肖像)」(三越のポスターにも使われた)「あやめの衣」など。

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<岡田三郎助像>

場所: 佐賀県立美術館佐賀市城内1-15-23)

竣工: 1938年

像高:

作者: 吉田久継

撮影時:2019年6月2日

説明:像のある場所は、佐賀県立美術館の「岡田三郎助」アトリエの脇である。このアトリエは岡田が東京の恵比寿に作ったもので、岡田の死後は辻永に受け継がれ、その後の大事に守られてきたものを美術館に移設・復元したものである。

 

〇辻永(つじひさし) (1884~1974)

 日本の洋画家。広島市生まれ、水戸市育ち。東京美術学校で、黒田清輝や岡田三郎助に師事し、洋画家となった。日展が社団法人化したときに初代の理事長となった。花を愛し、生涯で1万点を超える草花の絵を描いたとされる。父は旧久留米藩士であった。 

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<辻永像>

場所: 佐賀県立美術館佐賀市城内1-15-23)

竣工: 1964年

像高:

作者: 北村西望

撮影時:2019年6月2日

説明:師匠である岡田三郎助像の近くにいる。

 

 

〇張二男松(ちょうにおまつ)( ~)

 教育者。佐賀県師範学校の校長。トヨタ自動車元社長、会長の張富士夫の祖父。 

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<張二男松像>

場所: 佐賀県立美術館佐賀市城内1-15-23)

竣工:2006年1月

像高:

作者: 

撮影時:2019年6月2日

説明:台座には、もともと1928年に胸像が造られたが(おそらく、戦争の金属供出で無くなり、戦後頌徳の碑のみを建て、1984年にこの説明文の下のレリーフ像を作成、そして2006年に胸像の再建、移設がされたことが記されている。もとは佐賀県師範学校(現佐賀西高校)にあったと思われる。

 

 

ガリレオガリレイ (1564~1642)

 イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。ニュートンコペルニクスと並ぶ科学革命の先駆者で、フランシス=ベーコンと同じく科学的手法の父、天文学の父である。

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 <ガリレオガリレイ像>

場所: 佐賀大学本庄キャンパス(佐賀市本庄町1ほか)

竣工: 2019年4月

像高:約2.15m

作者: 徳安和博

撮影時:2019年6月2日

説明:大学キャンパスの教養教育大講義室近くの広場に立ったばかりである。台座にはガリレオが宗教裁判で語ったとされる「それでも地球は動いている」の言葉が書かれている。大学は「学生に、学問の真実性や唯一性を貫いたガリレオに倣った生き方をしてほしい」と作成したそうである。

 

 

大隈重信 

 (略) 

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大隈重信像>

場所: 大隈重信記念館(佐賀市水ヶ江2-11―11)

竣工: 1988年4月

像高:

作者: 小倉惣次郎(原型制作)。複製は立体写真像㈱が作製。

撮影時:2019年6月2日

説明:この像は、1903年に第一次大隈内閣成立時に早稲田大学校友会が作製し、1906年早稲田大学に設置された像の複製。原像は当初あの大隈像の場所にいたが、大学に大礼服像はふさわしくないと、現在のものに変えられた経緯がある。原像は現在、大隈講堂北側回廊に立ち、小倉の原型石膏像も早稲田大学大隈記念室にある。また、記念館内には1919年に三越に出展された、オッティリオ=ベッシ製作の胸像もある。しかし、赤ランプに照らされ、写真を撮ると異様な感じになってしまう。

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〇西村芳雄 (1903~1978)

 佐賀県生まれの教育者。各県の中学校教師を経て、戦後佐賀県に戻り、中高の校長を歴任、のち佐賀女子短期大学学長となった。 

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<西村芳雄像>

場所: 佐賀女子短期大学佐賀市本庄町1313)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2019年6月2日

説明:佐賀女子短期大学の駐車場近くの校舎脇に立つ。

 

 

大麻勇次 (1877~1974)

 日本の剣道家。段位は範士十段。流派は新陰流(上野新陰流)。熊本県生まれ。のちに大日本武徳会佐賀県支部佐賀県警察部、佐賀高校などで県道師範を歴任。全日本剣道道場連盟会長。 

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大麻勇次像>

場所: 佐賀県総合体育館(佐賀市日の出1-21-15)

竣工: 1990年3月

像高:

作者: 中牟田佳彰、毛利陽出春

撮影時:2019年6月2日

説明:あまり記憶にない…。

 

 

江藤新平 

(略)

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江藤新平像>

場所: 神野公園佐賀市神園4-1)

竣工: 1976年4月

像高:

作者:中島快彦

撮影時:2019年6月2日

説明:ちょっと頭でっかちな像である。残されている写真を見ると、確かにやや頭がデカいが…。神野公園(「こうのこうえん」と読む)は、1846年に作られた鍋島直正の別邸の跡に設けられた公園で、かなり小さな遊園地を併設している。何でこの公園に江藤がいるのか不明である。

 

これで一応佐賀県編は終わりである。掲載総数97。基本的に佐賀県は網羅した。

行けなかったのは、①野中忠太(如蘭塾=武雄市武雄町武雄4322)。ここは廃墟化していて、よくわからなかった。②志田林三郎(JR東多久駅)。本文中にも書いたが、設置されていたが、ブルーシートに覆われ、公開前と思われた。③大隈重信早稲田佐賀高校)。校内には入れなかった。④⑤松浦佐用姫(加部島天童岳と風の見える公園)。本文中に書いた通り。⑥江下武二(自衛隊目達原駐屯地神埼郡吉野ヶ里町立野7-1)。自衛隊は公開日以外は見学が難しく断念。

これ以外をご存知の方は連絡いただきたい。ちなみに空海親鸞日蓮像などはそれだけを探すことは少ないので、悪しからず…。