今回は、謎の多い回となりました。
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〇松浦佐用姫 (6C?)
肥前国(現在の佐賀県厳木町付近)にいたとされる豪族の娘。537年に新羅征討に向かうため、この地を訪れた大伴狭手彦と恋仲になったが、出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山(現唐津市)の頂上から領巾(ひれ)を振りながら船を見送っていたが、別れが耐え切れず、船で呼子まで追いかけ、加部島で七日七晩泣きはらした末、石になってしまった、という伝説がある。『万葉集』には、この伝説にちなんだ山上憶良の和歌が載っている。「海原を沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫」。
<松浦佐用姫像>
竣工: 1996年3月
像高: 12m(14mの表記もあるが、台座を含めてか?)
作者:
撮影時:2019年6月1日
説明:道の駅のはずれに立っていらっしゃいます。この像は時計回りに約15分かけて一周するそうです。そんなカラクリは、東京の松尾芭蕉像くらい。行ったときは全然気にならなかったのだが…。ちなみに伝説にちなんで、鏡山にも加部島にも佐用姫はいらっしゃいます。
〇松浦佐用姫 略
<松浦佐用姫像>
場所: 鏡山山頂(唐津市鏡6052-40)
竣工:1934年4月
像高: 約2メートル(7尺)
作者: 中井霓林(げいりん)
撮影時:2019年6月1日
説明:この像は、本来の佐用姫伝説とは違う伝説を作ってしまったようである。それは、「顔が怖い」ということ。目を見開き、なぜか金ブチ。陶像ですが、全身が黒ずんでいる。ネットを見ると「怖いから何とかしろ!」と唐津市にいった投稿と市の返答が載っている。市の返答は「立っている場所は県の所管です。また建造は民間団体(ライオンズクラブ)です。市としてはこの両者に意見具申します」というお役所的回答でした。市のHPでは1932年の市制記念で作ったか?とあります。このやりとりを見ると、中井霓林という細工師が1935年?にもともと唐津城に立てるはずが、仮置きという感じで鏡山山頂に置いたのがそのままだとか。さらに顔が怖いのは試作品のためとか、の噂があるようです。こういうやりとりのあった像は、以前紹介した高知県の武市瑞山像くらいしか思い浮かびません(武市像は作り変えられた)。なかなか面白いですね (下は全身像)。
なお、加部島天童岳天童神社付近(唐津市呼子町加部島)にも鏡山と同じ陶像が(作者も同じ)あり(1935年作)、周る予定でしたが、時間の関係で割愛しています(リベンジですね)。同じ加部島の「風の見える丘公園」内に、成富宏作のブロンズ像があります(像高1.5m)。
※松浦佐用姫像(画像を含めて)については、唐津市のHP上に一覧表がある(https://www.city.karatsu.lg.jp/bunka/tanbo/rekishi/sayohime-03.html)。
〇福沢諭吉 (1835~1901)
肥前国中津藩(現大分県中津市)出身の武士、明治期の思想家、教育者。慶應義塾などを創始し、商法講習所(のちの一橋大学)などの創始にも尽力した。現在の1万円札の顔である。
<福沢諭吉像>
竣工: 1952年4月
像高:
作者:
撮影時:2019年6月1日
説明:割とリアルな陶像である。佐賀県と福沢諭吉の関連が今一つであるが、台座の銘板には「講和条約発効之日」とあるので、戦後の造立となる。また寄贈者が「七條軍治」とあるが、この人が謎である。
〇保利大作 (1884~1952)
佐賀県東松浦郡鬼塚村(現唐津市)出身の農政家。全国に先駆けて造られた産業組合の初代組合長として努力した。
<保利大作像>
場所: JAからつ山本支所(唐津市山本1390)
竣工: 1964年3月
像高:
作者:
撮影時:2019年6月1日
説明:像について特に記憶はないが、「保利」姓はこの辺りの名士なのが分かった(あとに出てくる「保利茂」などは憶えている)。
〇西郷隆盛 (1828~1877)
薩摩藩(現鹿児島県)出身の武士、明治初期の軍人・政治家。
<西郷隆盛像>
場所: 八坂神社(唐津市石志4238)
竣工: 1906年5月
像高: 1.7m(台座込みで約3.4m)
作者: 中埜末造(中野霓林の本名とのこと)(唐津焼製造所)
撮影時:2019年6月1日
説明:愛犬付きの陶像である。佐賀新聞のHP(https://www.saga-s.co.jp/articles/-/316818)によると、台座には、地域の11人の使命と「参宮記念」の文字が。地域で調べたが、この地に西郷像が立ったことは謎で、ただ「中野窯に西郷の焼き物の注文が入り、2体作ったうちの1体がこの地に来た」ことはわかっている。