先週は、コロナ禍の間隙を縫って栃木県に銅像ハンティングに出かけておりました💦
〇建部清庵 (1712~1782)
江戸時代中期の医師。陸奥国一関生まれ。諱は由正。江戸でオランダ医学を学び、一関に戻り、父の跡を継ぐとその後は藩を出ることがなかった。名医の誉れ高く、東北の飢饉に対し、『民間備荒録』『備荒草木図』などを著した。また杉田玄白と親交を結び、蘭方医学の疑問を玄白と交わした書簡は、後年『和漢医事問答』として出版された。
<建部清庵像>
場所:一関市役所(岩手県一関市竹山町7-2)
竣工: 1983年11月
像高:
作者:喜多敏勝(株四津井工房)
撮影時:2020年9月22日
説明:建部家は代々の医者で、この像の清庵は2代目(5代まで続く)。像は市役所南面の東側に立つ。立派な立像である。
〇高平小五郎 (1854~1942)
明治期の外交官。政治家(貴族院議員)。陸奥国一関生まれ。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として従軍。明治に入り官僚となり、外務省に出仕。アメリカ、韓国の公使館勤務後、ニューヨーク総領事、オランダ、イタリア公使などを歴任。アメリカ公使時に日露戦争が勃発したが、アメリカに働きかけ和平を実現させ、、ポーツマス条約の調印に尽力した。
<高平小五郎像>
場所:釣山公園(岩手県一関市釣山10)
竣工: 1983年10月(初代は1930年4月に作られるも、戦争時に金属供出)
像高:
作者:佐藤紘行
撮影時:2020年9月22日
説明:竣工のところに書いたが、この像もご多分に漏れず、太平洋戦争時に金属供出されていたが、戦後小五郎の孫たちの尽力で再建されたようだ。
〇佐藤庄太郎 (?~?)
近代の農政家のようだ。一関市と合併した山目(やまのめ)村と関わっている。
<佐藤庄太郎像>
場所:磐井中学校の下(岩手県一関市山目館46-1)
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2020年9月22日
説明:磐井中学校に上がる坂道の途中、左下の広場付近にある石像である。今Googleストリートビューを見ると、坂下を通る県道14号線のところに、この像主の事績の看板が立っていた。周った当時は気が付かなかったので、しっかりと調べる必要がある。
〇大槻文彦 (1847~1928)
国語学者。実名は清復(きよまた)。儒学者大槻磐溪の三男として、江戸木挽町に生まれる。明治に入り、文部省に出仕すると、文部省報告課長の西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられ、『言海』(1986)を完成させた。この辞書は自費刊行されたのち、増補改訂版として『大言海』の執筆に移るが、完成を見ることなく亡くなった。宮城師範学校(現宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現仙台一高)校長を歴任している。
<大槻文彦像>
場所:一関図書館(岩手県一関市大手町2-16)
竣工:1982年11月
像高:
作者: 佐藤紘行
撮影時:2020年9月22日
説明:もともとは一関市役所の前庭にあったが、一関図書館の建設に際し、この像を移設した。校長をした仙台一高にも胸像がある(Wikipediaに写真が載る。下記参照)。右は一ノ関駅前の「大槻三賢人像」の文彦像。
〇大槻玄沢 (1757~1827)
江戸時代後期の蘭学者。陸奥国磐井郡中里(現一関市)生まれ。諱は茂質(しげかた)。『解体新書』で有名な杉田玄白、前野良沢の弟子であり、師の二人から一文字ずつもらって「玄沢」と名乗った。父の大槻玄梁も医師(一関藩医)であり、同郷の建部清庵に師事し、その友人の杉田玄白に学ぶ。その後一関藩の本藩である仙台藩の藩医となり、
江戸詰となった際に、私塾芝蘭堂を開設した。宇田川玄真、宇田川玄随、稲村三伯、橋本宗吉などの弟子がいる。著書に『蘭学階梯』。
<大槻玄沢像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2020年9月22日
説明:「大槻三賢人像」として、大槻玄沢・大槻磐溪・大槻文彦の胸像が三方向を向いて同じ台座にいる。なお時間の関係で(暗くなっていたし)周れなかったが、駅前から西に向かう「駅前通り」(途中から国道342号線)は、「先賢の路」として、一関出身の偉人のレリーフが並べられてる。
〇大槻磐溪 (1801~1878)
江戸時代後期の儒者、漢学者。仙台藩の藩校、養賢堂の学頭。江戸木挽町生まれ。父は大槻玄沢。諱は清崇。父は洋学者なのに息子が漢学者なのは、父の玄沢が仲間の桂川甫周と雑談中に、玄沢の訳した蘭語を当時の学術語である漢文体に直すために、盤渓を漢学者に育てようと話したことかららしい。実は早くから、開国論を唱えていた。戊辰戦争の時には奥羽越列藩同盟を主導し、戦犯となった。
(右は三賢人像の全体)
なお、一関市では、一関修紅高校(岩手県一関市東花王町6-1)に「小梨こま」像、一関市国保藤沢病院(岩手県一関市藤沢町裏52-2)に「中尾喜久」像があることが確認できているが、折も折であるので、来訪することも避けた。