お久しぶりです。今月からはまた真面目に毎週更新していきたいと思います。
〇井伊直政 (1561~1602)
戦国期から安土桃山時代の武将。徳川氏の家臣。遠江国井伊谷(現静岡県浜松市北区)生まれ。。上野国高崎藩初代藩主、近江国彦根藩初代藩主。徳川四天王とも言われ、徳川家康の天下撮りを支えた功臣の一人。「井伊の赤備え」と呼ばれる軍装をし、その中でも長槍を持って敵を蹴散らす姿から「井伊の赤鬼」と恐れられた。関ケ原の戦いでは家康の本体に随行して、本多忠勝と共に東軍をまとめた。
<井伊直政像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2012年4月29日
説明:愛知県の岡崎市には同様の騎馬像があるが、石像であるし、馬の顔や足が割愛されている。
〇井伊直弼 (1815~1860)
江戸時代の大名、幕末期の譜代大名、大老。近江国犬上郡彦根(滋賀県彦根市)生まれ。彦根藩14代藩主井伊直中の第十四男として生まれ、青年期は不遇を託つが、長兄直亮の後を継いで16代藩主となる。その後大老になると、日米修好通商条約を調印、13代将軍の後嗣に紀伊藩主、徳川慶福(のちの徳川家茂)を推挙する。こうした動きを横暴とみた、一橋派を「安政の大獄」で断行したが、報復として1860年3月の桜田門外の変で暗殺された。
<井伊直弼像>
竣工:1910年(1949年11月再建)
像高:
作者:森大造
撮影時:2012年4月29日
説明:この像は束帯の姿だが、これは意図がある。安政の大獄で尊攘派を罰したため、明治期から、直弼は「朝敵」の汚名がついてきた。そこで旧彦根藩士たちは、汚名返上のためにも、「彦根藩は勤皇の藩」であることをアピールするためにも、直弼像が正装である束帯である必要があったのだ。また当初像は、尾末公園にあった。戦時中の金属供出により、1944年に先代の像が回収されたが、大老の功績を偲ぶため、1946年に元の像の半分(約75㎝)の石膏像が造られた。しかし旧の銅像を再建すべく、1949年に新しい銅像が完成した。当初は滋賀県護国神社境内にあったが、1958年に現在地に移設している。
〇石川千代松 (1860~1935)
明治期の動物学者。滋賀県水産試験場で琵琶湖に生息するコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を拓いた。江戸本所(東京都墨田区)に幕臣の子として生まれ、明治になると東京開成学校(東大の前身の一つ)に入学して蝶に魅せられ、東京大学理学部で動物学を学ぶ。東京大学教授となり、進化論を普及させるとともに帝国博物館学芸員を兼務して、上野動物園の拡大に尽力した。
<石川千代松像>
竣工:1974年7月
像高:
作者:
撮影時:2012年4月29日
説明:この地は、彦根の旧港湾にあり、かつて鮎苗協同組合のあった場所らしい。
〇石田三成
略
<石田三成像>
竣工:1982年5月
像高:
撮影時:2012年4月29日
説明:龍譚寺は、井伊家の菩提寺。もともとの井伊家の所領のあった遠江浜松の龍譚寺から井伊直政が分寺した。すぐ裏が佐和山城址である。境内に石田三成の供養碑がある。
像は境内に入る手前の参道右手に立つ。