銅像ハンターtaguttiの銅像ハンティング記

銅像好きがこじれてよじれて20年以上。日本中の銅像ハンティングは続きます…

滋賀県編   その13   

〇兵衛門と兵太夫

 江戸時代後半(1770年代)、呉竹の地にいた兄弟。呉竹の地は地味がよかったが、水利に乏しく、干ばつや災害の際には復興に時間がかかった。その時二人の兄弟は、村のために自分たちの土地、家屋、家財道具などを救済資金として寄付し、村の危機を救ったとされる。

<兵衛門と兵太夫像>

場所:呉竹地蔵堂公園(滋賀県犬上郡甲良町113-2)

竣工:2004年3月

像高:

作者:

撮影時:2012年4月29日

説明:像の立つ地蔵堂の西側公園の地(他に亀山神社、墓地、旧公会堂など)は、二人の救済資金で村の所有となった地。1946年には墓地の入り口に二人のための石碑も立っている。

 

織田信長

 略

織田信長像>

場所:安土駅北口(滋賀県近江八幡市安土町上豊浦1334-1)

竣工:1991年6月

像高:3m(台座は3.5m)

作者:山口栄太郎

撮影時:2012年4月29日

説明:全国に織田信長像はあるが、あまり評判の良くない姿の像。手に扇を持つが、安土城の築城を指示する姿という。1991年に当時のアサヒビールの会長、樋口廣太郎が賛助したもの。樋口は京都出身だが、彦根経済専門学校(現滋賀大学経済学部)の卒業で、滋賀ともかかわりがある(親族が安土の出身という)。

 

〇六角定頼  (1495~1552)

 戦国期の武将、守護大名近江国守護の六角高頼の次男。僧籍に入っていたが、兄の氏綱が早世したため、還俗して家督を継いだ。室町幕府の内訌(両細川の乱)を収め、12代足利義晴の擁立に尽力、六角氏全盛期を築き上げた。また観音寺城の城下で「楽市令」を出したことでも知られる。

<六角定頼像>

場所:きぬがさ山トンネル南側出口付近(滋賀県東近江市五個荘石馬寺町673)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2012年4月29日

説明:六角氏は鎌倉時代からの御家人、佐々木氏の嫡流のひとつ。南近江を地盤とした。この像は顔の部分に着色がされている。近くに「繖公園」があり、一応その一角の場所に設置されたのだろうが、駐車場からも遠く、像の側に車を停めるスペースがなく、脇を車が高速で飛ばしていくので、像に接近するのがなかなか大変…。  

 

〇藤井彦四郎  (1876~1956)

 戦前の実業家。日本の化学繊維業界のパイオニアの一人。滋賀県神崎郡北五個荘村(現滋賀県東近江市)生まれ。父三代目藤井善助の仕事を助け、後に分家し「藤井彦四郎商店(株式会社藤井)」を創業する。フランスで発明された人工絹糸(レーヨン)を持ち帰り宣伝する。ただしレーヨンの製造はせずに、共同毛織、共同毛糸紡績(倉敷紡績)を興して、「スキー毛糸」のブランドで成功する。

<藤井彦四郎像>

場所:五個荘近江商人屋敷藤井彦四郎邸(滋賀県東近江市宮荘町681)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2012年4月29日

説明:胸像は敷地入り口の北側庭園内にあり、兄の4代目藤井善助、長男の正次郎像とともにいる(いちばん左側の大きい像)が、館内にも椅子に座った姿の全身像と胸髄がある。

 

 

〇藤井善助  (1873~1943)

 日本の実業家、政治家。藤井商店の4代目。彦四郎の兄。滋賀県北神崎郡北五個荘村(現滋賀県東近江市)生まれ。1903年に父から家督を継ぎ、4代目を名乗る。京都のさまざまな会社の取締役を務め、1904年には出身の北五個荘村の村長となる。その後憲政本党から衆議院議員選挙に出馬して当選、通算3期務める。

<藤井善助像>

場所:五個荘近江商人屋敷藤井彦四郎邸(滋賀県東近江市宮荘町681)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2012年4月29日

説明:

 

〇藤井正次郎  (不明)

 彦四郎の長男。

<藤井正次郎像>

場所:五個荘近江商人屋敷藤井彦四郎邸(滋賀県東近江市宮荘町681)

竣工:

像高:

作者:

撮影時:2012年4月29日

説明:株式会社藤井は、2000年に経営破綻し、スキー毛糸の販売権は株式会社本廣に移された。京都市には藤井善助のコレクションを展示する「藤井斉成会有鄰館」という美術館がある(京都市左京区岡崎円勝寺町44)