〇原田正 (?~?)
医師。原田病院の院長。
<原田正像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2014年1月5日
説明:JR牟岐線の阿南駅の近くにある。まだこの頃は銅像を撮るだけだったので、台座におそらく書かれているであろう、人物の経歴や作者のデータを調べていないので、すべて「わからない」状態である。
〇杉本邦雄 (?~?)
中野島村議会議員、富岡町議員、阿南市議会議員、市議会議長。阿南商工会議所の初代会頭(1964年)。阿南市消防団長を歴任した。
<杉本邦雄像>
竣工: 1968年11月
像高:
作者:
撮影時: 2014年1月5日
説明:阿南市の県道130号線と県道24号線のぶつかる三差路の近くにある(銅像・碑文の裏に「キッズスペースSEEDS」がある)。脇には大きな「杉本邦雄頌徳碑」が立っている。こう書いたが、当時の写真では裏には農地が広がっていて、「キッズスペース」の建物など微塵もありません。
〇山田隆二 (1882~1972)
官僚(鉄道省)。鉄道省工務局長兼大臣官房研究所長となった。徳島県那賀郡那賀川町中島出身。郷土の鉄道網、特に阿土海岸線鉄道(現牟岐線および阿佐東線)の開設に尽力した。また関門海峡トンネルの開削などにも関わった。退官後は、日本コンクリートポール会社取締役などを歴任した。
<山田隆二像>
竣工:1961年3月
像高:
作者: 坂栄文雄
撮影時: 2014年1月5日
説明:レリーフ像である(“銅像ハンター”と名乗っているが、求めているのはその地にかかわる人物などであるので、立体化されたもの以外でも自分の中では「Ok」である)。出身地に駅を作ったことから、この地に顕彰碑が立っているらしい。
〇足利義栄(あしかがよしひで) (1538or1540~1568)
室町時代(戦国時代)、室町幕府第14代将軍。阿波国那賀郡平島(現徳島県阿南市)生まれ。戦国期の将軍家に権力はなく、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭<政康>・岩成友通)、松永久秀らに担がれて将軍となった。しかし、三人衆と松永久秀が権力抗争をする中、京都には短期間しかいられずに、阿波へと戻り、そのまま亡くなった。
<足利義栄像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2014年1月5日
説明:阿波公方民俗資料館は、阿波公方(平島公方)のいた平島館址に建つ。もともと那賀川町の歴史民俗資料館だった(月曜日など休館)。像はおそらく木像で、館内にいる。
〇足利義維(あしかがよしつな) (1509~1573)
室町時代(戦国時代)の将軍家足利氏の一族。父は11代将軍足利義澄。堺公方と呼ばれ、異母兄の足利義晴と対峙していた。しかし擁していた管領細川家に内訌が起こると阿波に逃げ、「義冬」と名乗った。その後は担いでいた三好長慶が今ひとつ義冬を押すことができずに、そのまま阿波で亡くなった。
<足利義維(義冬)像>
場所: 阿波公方民俗資料館(徳島県阿南市那賀川町古津339)
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2014年1月5日
説明:展示に「複製」とあり、原像は京都の当時院かと思ったが、どうも栃木県足利市の「鑁阿寺」であるらしい。この像は15人全員あり(当時院は5代、14代がない)、仏師朝運とその弟子が作ったとされる。
〇足利義稙 (1466~1523)
室町時代の第10代将軍。父は8代将軍足利義政の弟、義視。初名は「義材(よしき)」。1490年に一度将軍となったが、明応の政変により、京都を脱出し越中国放出津(現富山県)に移った。この頃は「義尹(よしただ)」と名乗っている。この頃従兄の足利義澄が11代将軍となった。その後越前、周防などを転々として、1508年に将軍職に復帰した。しかしその後も細川・大内・畠山諸氏と対立し、「義稙」と改名したが、京都にいられず、和泉国堺へ逃げ、さらに阿波国へと逃げて亡くなった。
<足利義稙像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時: 2014年1月5日
説明:等持院の「足利義稙像」とこの像が似てないと思ったら、Wikipediaに「鑁阿寺(栃木県足利市)」の像を模したものと書かれていた。なお、足利義稙像は、逃亡先の富山県射水市の放出津橋の欄干脇に2体ある(1体は狩衣像、もう1体は甲冑を着た騎馬像)。